過去拍手 | ナノ





三輪目

「こんなに早く、またジョット様にお会いできるとは思いませんでした」


 しかもおひとりで、と言って微笑む蔓薔薇に、ジョットは苦笑を向ける。

 五日前と同じ、揚屋『朝里屋』の座敷で、蔓薔薇は派手な牡丹が描かれた襖に向かって唇の端を釣り上げた。


「お床はなし、でありんしたな?」

「あぁ…」


 にっこりと微笑まれて、ジョットは苦く笑い返す。

 ジョットが妻も恋人も持たないのは、ただ単に仕事に集中したいという理由からだったが、この時代の日本ではそういう男は遊里に通わなければ性癖を疑われる。

 蔓薔薇ほどの花魁を呼んでおきながら床入りしないなど、大莫迦者だと笑われてかねないが、目の前の遊女はあっさりと頷いた。


「意外といらっしゃるのですよ。床入りなしのお客様は」


 遊女にとって、床入りなしの客はとても有難い存在だと蔓薔薇は言う。

 そうかもしれない。体面を保つために遊里に来る男は、床入りと同等の金額を払って、遊女に触れることなく時を過ごすのだから。


「ジョット様、これを」

「ん? ワインじゃないか」

 瑠璃でできた杯を手渡され、注がれる葡萄色の液体を見てジョットは軽く目を細めた。

 甘い香りを嗅ぎ、味わうようにゆっくりとワインを飲み干したジョットの口元に笑みが浮かぶのを見て、蔓薔薇はほっとしたように胸に手をあてた。


「お口にあって安心しました。実はその御酒、花蜜屋が手に入れた品なのでありんすが…」

「花蜜屋?」


 ジョットは眉間に皺を寄せた。それは朝里屋の宿敵といっても過言でない揚屋の名だったからだ。

 訝しげに葡萄酒を眺めると、蔓薔薇のころころと笑う声が聞こえる。


「ジョット様がいらっしゃるとわかった途端に、穹風が飛んで行って花蜜屋から買い取ってきたんでありんす」

「穹風が?」


 目を丸くするジョットの橙色の瞳を見て、思い出し笑いなのかおかしそうに笑いながら蔓薔薇は頷いた。


「ジョット様をおもてなしするのに相応しい御酒はあれしかありません!と言って。まさか本当に手に入れてくるなんて思いませんでしたけど」


 自分をもてなすために、敵対しているといえる揚屋に一人で行った穹風を思い、ジョットは顔を綻ばせる。


「お前の様子なら、穹風に危険はなかったんだな?」

「えぇもちろん。あの子は花蜜屋の白蘭様に気に入られていますから」


 いつも笑顔を浮かべている花蜜屋の若い主を思い浮かべてむっとしたジョットの顔は、思い出し笑いを続けている蔓薔薇には見られずに済んだ。

 こくり、こくりと喉を鳴らして、ジョットは葡萄酒を流し込んだ。

 できるだけさり気ないふうを装って、廊下へ続く襖を眺めた。


「穹風は下にいるのか?」

「えぇ。待たせている間に初見世用の着物を選ばせていんす」


 つきん、と胸の辺りに針で刺されたような痛みを感じた。

 奥歯を噛み締めたジョットの様子に気づかないまま、蔓薔薇はとても嬉しそうに手を叩いた。


「そうそう、穹風の初見世のお客様が決まりんした。ジョット様」


 横面をいきなり殴られたかのような衝撃を感じた。

 あんなにも甘かったワインの味が、一瞬で感じられなくなった。

 考えないようにする、という行為により、常に頭の中にあったこと。



 穹風の、初見世の客のこと…。



「あの方なら初見世には最高のお客様。初見世のお客になるような方じゃないのですけど」


 蔓薔薇は嬉々として喋り続ける。とても嬉しいのだろう。

 自分の新造が、手塩にかけて育てた妹分が最高の客相手に初見世を迎えることを嬉しいと思わない遊女はいない。








「アラウディ様がお客になってくださるなんて、穹風にはこれ以上ない初見世になりんす」








 思考が停止した。

 どくどくと心臓が血を送り出す音が、やけに大きく聞こえていた。





(prev : top : next )



- ナノ -