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四輪目 最後の花

《アラウディ様がお客になってくださるなんて、穹風にはこれ以上ない初見世になりんす》








 ぼと。

 杯が落ち、目の前の遊女の着物に葡萄色の液体が染み込んでいく。

 その様子をぼうっと目に映していたジョットは、我に返って慌てて杯を拾い上げた。


「す、すまないっ」

「大丈夫でありんすよ」

「いや、この染みはすぐに洗った方がいい。着替えてこい。明日にでも呉服屋を置屋に寄越すから、好きなものを選んでくれ」


 客をひとりにはできないと渋る蔓薔薇を説き伏せて、三味を弾いていた禿達と共に部屋から出すと、ジョットは金色の髪を乱暴に掻き乱した。



 なぜ、なぜアラウディが穹風の初見世の客に…。

 あの日は、そんな素振りなど一度も見せなかったというのに。



 アラウディも、Dのように気まぐれに遊里に足を運ぶが、馴染みは作らず、ジョットのようにただ酒を飲んで過ごすこともあると聞いていた。

 美麗な顔立ちから、是非買って欲しいと望む遊女は大勢いるときく。尤もジョットも同様であるが。

 そんな男がなぜ、初見世の新造の客になる気になったのか。

 いや、理由は明白だ、とジョットは唇を噛む。

 アラウディは穹風を気に入ったのだ。初見世の客になろうと思うほど。

 部下である前に友人である男のことはよく知っている。

 一度執着すれば、必ず手に入れ、よほどのことがない限り手放さない…。





「失礼します」

「っ!」


 襖の向こうから聞こえた声に、ジョットは体を強張らせた。

 忘れもしない、柔らかい風のような声。


「穹風……」

「蔓薔薇姐さんから、戻るまでお相手をするように言われました」


 襖を開けて、ふわりと微笑む愛らしい顔を見て、どうしようもなく苦しくなる。

 今日の穹風は青みがかった白の着物だった。白地に紅緋で描かれた大輪の花が美しい。

 薄緑の帯には毬の刺繍が施されてあり、とても高価な代物だった。

 それが、穹風が初見世のために選んだ着物かと思うと、胸が痛んだ。

 自分を信用して穹風を寄越した蔓薔薇に、恨めしい気持ちが湧きあがる。


「これを、花蜜屋に買いに行ってくれたと聞いた。ありがとう」


 渦を巻く気持ちが顔に出ないよう努めながら笑みを向けると、穹風は嬉しそうにへにゃりと笑った。

 包み込むように頬に触れれば、気持ち良さそうに目を閉じた。


「よかった…。ジョット様に喜んでもらえて」


 目を閉じたまま、ジョットの手の上に自分の両手を柔らかく重ねる穹風を、抱きしめたい衝動に駆られる。

 自分が初見世の客になると言えば、穹風は受け入れてくれるだろうか。


 アラウディに断ってくれ、なんなら俺が話をつけてもいい。

それでお前の初見世の客になれるのなら、なんだってする。


 そんな科白が頭の中に浮かんで、そして消えた。


 初見世に【床入りなし】はない。


 それに、自分のような客が意外と多かろうと、初見世を終えた穹風は客を取る遊女になる。

 客を取らない遊女など存在しない。

 男と寝なければ、生きていくことができない。


 それでも、それでも…。


「ジョット様」


 穹風が静かにジョットを呼ぶ。

 伏せていた瞼に唇を近づけると、吐息がかかったのかぴく、と小さく身じろぎした。

 ゆっくりと目が開かれ、濃い茶色の瞳に自分の顔映った。

 驚いた穹風が体を引く前に目尻に唇を押し当てると、見開かれた目からは何故か涙が零れた。


「アルが…初見世の客だと、聞いた…」

「っ…!」


 息を呑んだ穹風が、勢いよくジョットの肩口に顔を埋める。袷をぎゅっと握る小さな手が、小刻みに震えていた。


 それを見て、ジョットは自分の気持ちが一方通行でないことを直感した。

 自惚れだと言われてもかまわない。根拠のない確信だが、それで十分だった。


 穹風は初見世を止められない。

 あんなに喜んでいる蔓薔薇を裏切ることは、この娘にはできない。

 そして自分も……





 この娘を、金で買って抱くなど……できない。





「ジョット様」


 顔を上げると、穹風が笑顔を浮かべていた。

 ふわりとした笑顔はいつもの笑顔だったが、目尻の涙の跡は見間違いではなかった。


「初見世の日、道中させていただくんです」


 花魁道中。
 遊女として生きる女達の、一度は叶えたい夢だとされる、初見世の最大の見せ場。


「転ばないように歩きますから、見に来てください」


 少しだけ涙声のその言葉に、ジョットは僅かに微笑んで頷いた。



 穹風の道中は、きっと綺麗だろう。

 誰よりも、なによりも、美しいだろう。





 だが、それを見ることはないだろう。

 微笑む穹風を前に、嘘をついた自分をこの娘は許してくれるだろうか。





 きっと二度と会うことはない。

 遊里には二度と来ることはないだろう。








 花は開いた。

 美しく咲いた花は、実を結ぶことなく散ってゆく。

 それはを人は、徒花と呼ぶ。







 散る花、徒花、愛の花…




* * *




拍手御礼にしては随分と重い話になってしまいました…(^_^;)
ここまで読んでくださってありがとうございました。


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