10万企画・記念小説 | ナノ


09


 いかにも弱りきったという顔の男が見えた。

 男がいるのは、いまにも井草の薫りがしそうな、真新しい畳の上。

 きちんと正座をしたその男は、目より下になってしまうんじゃないかと思うほど眉尻を下げ、先ほどから忙しなく目を動かしている。

 男が困ったように目を向けるのは、床の上に置かれた白木の三方の、上に置かれた横笛。そしてそれを挟んで向かい側に座る男だ。

 白いの狩衣に黒髪の上に載った黒の烏帽子。すらりと背筋が伸びた、公家姿の青年は緩く笑みを浮かべている。男はますます弱ってしまう。


『雨月様。このお品は何度も申し上げたようにこのまま帝に献上してもおかしくないほどの代物で、値が付けられない…』

『うん。それを買ってほしい』


 遮られ、男はがくりと肩を落とした。目の前にある笛は、彼が長年愛用し、素晴らしい音楽を奏でてきたものだ。

 先ほど値が付けられないと言ったのも、彼の笛であることが理由の一つだ。

 正直、欲しい。喉から手が出るほど。

 だが自分には荷が重すぎる。彼…雨月以外が持つことはこの笛の価値を下げるだけだとしか思えない。正直、帝でさえも。

 笛を凝視したまま冷や汗を流す男に、雨月は茶を一口啜って声をかける。


『値はそなたに任せるでござる。伊太利亜国への旅費と、刀が買えるくらいになれば良いから』

『そんな安値でっ……雨月様、なぜ宝であるこれを売ってまで伊太利亜国に行こうとなさるのか?』


 身を乗り出して、男は雨月に問う。男にとって、海の向こうの外国など未知の領域だ。たまに日本で見かける、大柄な異人達がうようよいる、まるで絵図のような場所だと思っている。

 雨月は男の質問には答えず、しばらく開け放たれた襖の外を眺めた。

 見慣れた日本の風景。これがしばらく見られなくなるとしても、もう一片の悔いもなかった。


『これが買えないと言うのなら…時を三日、戻してはくれまいか?』

『は…?』


 突然の言葉に、男は頓狂な声を上げる。

 雨月は視線を外に向けたまま、苦く笑んだ。歪んだ唇に、悔やむ思いが滲んでいた。


『三日前に戻って、私は友の願いを踏みにじろうとする過去の己を、ぶん殴ったうえで諭してやりたいのでござる』


 物騒な言葉に男が困惑しているのを知ってか知らずか、雨月は目を伏せた。三日前に、友の部下に渡した文を思い出す。

 力を貸してくれと訴える友の思いを、自分は拒絶した。

 文を乗せた船を見送ってから今日まで、後悔の渦に何度も飲み込まれただろう。


『伊太利亜国には、一生の友がいる』


 雨月は顔を前に戻し、まっすぐに男を見た。

 気圧されたように息を呑む男に、雨月は眉を下げて笑いかけた。


『色んな柵【しがらみ】に、目が曇ってしまっていたのでござる。大事なものが、見えていなかった…』


 そう言った雨月の腕がすっと伸び、男は目を剥いた。

 雨月の手には、いつの間にか細く小さな茶杓が握られていた。先ほど彼が茶を点ててくれた際に使われたものだ。

 ただならぬ威圧感に背中が冷たくなる。男は生唾を飲み込んだ。





『私はこれひとつでも容易にそなたを殺せる。時を戻すことができぬのなら、今すぐこれを買い取るのだ』





 雨月はゆったりと微笑み、だが有無を言わさぬ声音で男に告げた。


『もう時間がない。夕方には手配した伊太利亜国行の船が出てしまう』


 男は首に押し宛てられた茶杓の冷たさに、汗をだらだらと流しながらもなんとか頷いた。








 目の前にいる狩衣姿の優美な青年は、希代の楽士であると同時に、希代の剣豪でもあったのだから。





* * *





『本当にすまない…。ジョット…』


 夕方。港で船の出向を待つ雨月は、海風を感じながらひとりごちた。白の狩衣の袖が、時折大きくはためく。


『愚かな友だが、まだ待っていてくれるなら…今度は間違えない』


 雨月の手の中には、笛を売った金で手に入れた一振の長刀。懐には三本の小刀がある。

 出向を告げる声に、雨月は踵を返した。





『さぁ、行くとしよう』





 ぽつり、ぽつりと雨が降った。

 だがその雨はすぐに止み、雲の隙間からオレンジ色の光が差し込む。





 異国の友の、まっすぐな瞳と同じ色だ。





 なんとも幸先の良い船出だと、雨月は思わずははっと笑いを零した。








(まるで目の前で起こっているかのように鮮明に、それは頭の中に流れ込んできた)