10万企画・記念小説 | ナノ


08


 心地よいぬるま湯の中にいるような感覚だった。

 全身をゆるゆると撫ぜる倦怠感。瞼がとても重い。


『……い、…キ。起き……こら』


 軽く肩を揺さぶられた。少し硬い、だが血の通った、あたたかい人間の手だ。

 ああ。瞼が重くて開かない。

 そういえば、戦争が始まってから一度も満足に眠れていなかったような気がする。


『起きやがれこのガキがっ!』

『痛ッ、ってぇっ!』


 肩に衝撃を感じたと、思う間もなく全身が叩きつけられた。

 慌てて上半身を起こすと、先ほどまで自分が横になっていた背もたれのないソファを挟んだ向かい側に、リナルドが立っていた。

 寝ぼけて辺りをきょろきょろと見回して、気づく。ここはGとリナルドが最初に出会った、リリアーナの店の跡地だ。

 リナルドは灰色の瞳を細めて、傲然と顎を上げてこちらを見下ろし、わざとらしく溜め息をつく。

 絶対こいつ、蹴った。


『人に散々迷惑かけた諸悪の根源がぐーすか寝やがって。何様だてめぇボンゴレ様か?』

『まぁまぁ、そう言ってやるなよリナ』


 目を白黒させているGのすぐ傍の窓から、初老の男がひょいと顔を出した。男は驚くGに豪快な笑顔を向ける。


『医者の話じゃ主に寝不足からくる過労だってよ。リナの暴言は気にせずまだ休んでろ。若いのに過労死なんてかっこつかねぇぞー兄ちゃん』


 がっはっはと笑いながら男は手を振って去って行った。

 呆気にとられながらも顔を店の中に戻すと、リナルドが隅の方にある簡易キッチンの方へと歩いていた。


『今のって…』

『町長だ。お前が寝てる間に住民を呼び戻して、街の清掃と応急の修繕を済ませた』


 驚いて外を見ると、いつの間にか外にはオレンジ色の光が降り注ぎ、だいぶ日が傾いていることがわかる。人のざわめきも聞こえ、多少壊れたところが目立つが、普通の街に見える。


『悪い…。俺の所為なのに』

『まぁ、街の奴らは慣れたもんだから気にしてねぇけどな』

『だが住民を呼び戻して大丈夫なのか? 奴らのファミリーがここで起こったことを嗅ぎつけるかも…』


 リナルドは鍋を火にかけながら、軽く肩をすくめた。


『外部には漏れてねぇよ。お前がここに来たこともお前を仕留めるか捕まえてから報告するつもりだったみたいだからな。一応、街の連中にはいつでも逃げられるように警戒態勢を敷かせてある』


 大丈夫だろ、とあっさり言ってのけるリナルドの背中をGは呆然と見つめた。

 2対十数人だったとはいえ、武器や爆薬が飛び交った戦闘の跡はなかなかに惨状だったはずだ。

 だが窓の外を見ると、確かに血が流れていたはずの地面や壁は綺麗になっており、飛び散った木っ端は掃き掃除がされていた。

 Gが眠っていた時間はそう長くない。

 こんな短時間で、住民の指揮を取って街を清掃し、その後のことも考えているなんて。

 そしてGが何より驚いたのは、理不尽に街を襲撃されたはずの住民が、笑っていたことだ。

 耳を澄ませば、瓦礫で遊んでいると思われる子どもの声が聞こえる。

 この街にいる誰もが、こんなにも早く普通の生活を取り戻しているなんて。


『すげぇ…』


 ぽつりと零れ落ちた言葉は、キッチンにいるリナルドには届かない。





 全てを洗い流す、恵みの村雨



『ッ!』


 Gは目を見開いた。唐突に、その言葉が、雨の守護者の役割たる言葉が、頭の中に浮かんだのだ。

 戦いの跡を早々に洗い流し、守るべき住民に笑顔を取り戻す。


『見つけた…。なぁ、ジョット…』


 遠く離れた本部にいるであろう幼馴染みを想い、Gは呟いた。

 その言葉が耳に届いたのか、リナルドがふと振り返った。



 ばさりとなびく黒髪、鋭く光る灰色の瞳。

 悪戯っぽくにやりと笑ったその顔は、やはりどうしようもなく美しい。



 見惚れている間に、リナルドがこちらに向かって歩いてきた。

 長い足が、座っているGの目の前にきた時、Gはリナルドの腰辺りのシャツを掴んだ。


『雨の守護者になってくれ』

『は?』


 驚いたように丸くなる灰色の瞳。その視線を真正面から受け止める。

 シャツを掴んだまま、Gは再度言った。





『俺たちの、雨の守護者になってくれ…リナルド』





 言葉を区切って、紡がれた言葉に、リナルドは微苦笑を浮かべた。灰色の瞳が、一瞬揺れた。


『悪いが、俺にはそんな大層な肩書きは似合わねぇよ。…おら』

『?』


 鼻先に突き出されたマグカップに、Gは一瞬首を傾げた後に顔をしかめた。


『なんだ…これ……』

『スープ。お前何も食ってねぇだろ。倒れたことだし、腹に入れとけ』


 Gはますます顔をしかめる。リナルドはそういう気遣いをする男には見えないし、何よりもこのマグカップの中のスープだ。

 湯気を立てるそれは、トマトスープのような匂いを発しているが、色が緑色だ。匂いも、トマトスープのようではあるが、かなりの刺激臭だ。

 Gの顔に気づいたのか、リナルドが苛立ったような笑顔を浮かべる。


『雨の守護者なんてお断りだ。おら飲め』

『んが、っぐ!』

『零すなよ。全部飲め』


 鼻を摘ままれ、驚いて口が開いた瞬間を狙われた。

 口の中に強烈な酸味が流れ込み、Gは思わずきつく目を閉じた。

 予想よりさらさらしていたスープを、喉を鳴らしてなんとか飲み下す。あり得ないほど不味い。だが吐き出すことができなかった。


『げ、っほ、ゴホッ!』


 マグカップの中が空になったタイミングで、鼻からリナルドの手が離れた。

 派手に咳き込む。なんてものを飲ませてくれたんだ。

 目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭い、Gはぎっとリナルドを睨みつけた。


『何しやがる! つか、よくあんなものをスープだなんて言いやがったなてめぇ!』


 悪態をついた瞬間、視界が揺らいだ。


『ッ!』


 咄嗟に頭を押さえる。くらくらする。ぼうっとする。

 こんなこと、以前にもあったような…。








《本当にすまない…。ジョット…》





 頭の中に唐突に流れ込んできた映像に、全ての思考が停止された。








(そうだ。この感じは…リリアーナの……)