郵便係、回想
あれは、一ヶ月程前のことだった……。
《すみません。馬車を移動させていただけませんか?》
いつものように郵便を届けるため馬車で屋敷の敷地内へ入ると、門から屋敷までの道に、一台の馬車が停まっていた。
狭い道というわけではないのだが、斜め向きに停められているため横をすり抜けるのは難しそうだった。
もう少し前に進んでくれれば玄関前の広い場所なのに、と思いながらも、御者台から降りて馬車の隣に立っているスーツ姿の男性に話しかけたのだが…。
《馬車に乗っているのは誰だ?》
と横柄な態度で聞き返された。若い男だった。ランポウ様やなまえ様と、たぶん同じくらい。
嫌な感じだ、と思ったが顔には出さない。若い男だが自分よりは確実に年上なのだから。
《誰も乗っていません。この馬車は郵便物をお届けするためのものですから》
丁寧な態度で答えたが、男から返ってきたのは嘲笑だった。
《なんだ、ただの郵便係かよ。この馬車の持ち主は最近幹部入りとなったアマデオ様だ。勝手に動かすわけにはいかねぇんだよ》
《よそにやれと言っているわけではないんです。まっすぐ停めてくださるか、もう少し前に移動してくだされば……っ!》
言い終わる前に強い力で胸倉を掴まれて息が詰まった。眼前にアマデオ氏の部下の、深々と刻まれた眉間の皺があった。
《紙きれを届けるだけの分際で、幹部の馬車をどかそうってのか!?あ?郵便なんざ馬車なんて使わずにてめぇの足で運びやがれ!》
顔に唾が飛んできたが、そのことよりも男が吐いた言葉にかっとなった。
シャツを掴む腕を払おうと、男の腕を掴む。
《何をしているの?》
高くもなく、低くもない声が、自分と男の間を通り抜けたような気がした。
顔を向けると、玄関へ続く道から、斜めに停まった馬車の横を通って、マホガニーの髪と同じ色の瞳のなまえ様がこちらに向かって歩いていた。
男の手が離れ、慌ててシャツを直していると、なまえ様が立ち止まってふわりと微笑んだ。
血が上っていた頭が一瞬で冷えて、今度は腹の辺りが冷たくなってきた。なまえ様に幹部の部下と揉めていたところなど見られたくはなかった。
《こんにちは、ファビ。何かあったの?》
《こ、こんにちはなまえ様。いえ、えと…《このガキが郵便係の分際でアマデオ様の馬車をどかせて自分の馬車を通せと言ってきやがったんだ》
遮って言った男の言葉に、自分の顔が蒼白になるのがわかった。
内容ではなく、なまえ様に対する口のきき方に。どうやらなまえ様をただのハウスメイドとでも思っているらしく、男はじろじろと不躾な視線を彼女に送っている。
今すぐこの男の目を潰してやりたいと思ったが、実行する前になまえ様がすっと男の前に立った。
ふわりと甘い香りがして、お菓子でも作っていたんだろうかと一瞬それどころじゃないことを考えてしまう。
《貴方の話しぶりだと、郵便係がとてもくだらない仕事だと言っているように聞こえるけれど?》
《その通りじゃねぇか。たかが紙きれを運ぶのに二頭立てなんか使いやがって。俺の上司は幹部だぞ。郵便係なんかのために馬車を動かすわけがねぇだろうが》
言いたい放題言って高笑いを始めた男を見ているなまえ様が、ぎゅっと眉を寄せた。
マホガニーの瞳が、光に反射して明るく見える。
《ボスと守護者に届けられる手紙は、一見私的なものに見えても実は重要な書であることもある。だから郵便馬車を狙って襲ってくる賊は後を絶たない。それにたとえ私的な手紙であっても、敵に奪われれば弱みを握られる可能性がある》
淡々と述べられた言葉に、男の顔が少し歪む。
《だからボスは立派な馬車と馬を郵便係に与えた。郵便係には何があろうと郵便物を守る使命があるのだから》
言葉を切ったなまえ様は、鋭い視線を男に向ける。なまえ様のそんな顔は、初めて見た。
《このファビオがここに馬車を走らせるのはボスが命じたから。そしてボスが直接命じなくても、任務とは全てボンゴレのためにあるもの。貴方の上司が幹部であることなんて、彼の任務を妨げる理由になるはずがない!》
《っこ、この女ぁ!》
なまえ様が厳しい顔で言い放つと、逆上したのか顔を真っ赤にした男が彼女の胸倉を掴み上げた。
男が思わぬ行動を取ったので、一瞬判断が遅れた。まさか女性に手を上げようとするほどの下種だとは思わなかった。
《っなまえ様!》
《ボス、もうここまでで結構ですよ》
《なに、せっかく挨拶に来てくれたんだ。今日くらいは馬車まで…》
男を止めようと声を上げたとき、斜めに停まった馬車の陰から人影が二つ現れた。
確認するまでもなかった。前を歩いていたのは新米幹部のアマデオ氏、そしてその後ろには輝く金髪とオレンジ色の瞳のボンゴレプリーモ…我らがボスに間違いない。
若い…ボスより少し年上くらいのアマデオ氏は、こちらに目を止めた瞬間にみるみる顔を青くした。
そして一歩後ろに退がった。目の前の光景を、ボスに見せまいとする行動に見えたのは、きっと気のせいではない。
だが無駄な抵抗だ。
《貴様……何をやっている…?》
ボスが、低い声音で発した言葉をなまえ様の胸倉を掴んだまま固まっている男に突き刺した時、先程まで抱いていた怒りを忘れてアマデオ氏の部下に同情した。
鋭い視線と心臓を締め上げるかのような殺意は、自分に向けられていないから耐えられているようなもので、それを一身に受けているアマデオ氏の部下の足は、可哀想なほどがくがくと震えている。
《ジョット、もういいの。話はついたから》
力が抜けた男の手を自分のシャツから離したなまえ様が笑いかけると、ボスから放たれていた殺気がふっと止んだ。
男が崩れ落ち、アマデオ氏がジャパニーズ土下座を始めるのを茫然と見ていると、なまえ様に腕を引かれた。
《来て》
ずんずんと歩くなまえ様についていくと、いつだったかボスとG様となまえ様とランチをした原っぱに辿り着いた。
立ち止まったなまえ様がふわりと微笑んだのを見て、慌てて頭を下げる。
《申し訳ありません。お屋敷の敷地内であのような揉め事を起こしてしまい》
《ファビは何も悪くないよ。……私の方こそ貴方に謝らなきゃいけないの》
弱々しく零れ落ちたなまえ様の言葉に首を捻る。なまえ様に謝られるようなことをされた覚えなどない。あるわけがない。
何かの間違いだと言おうとしたが、腕を掴んだままのなまえ様が小刻みに震えていて、言葉が喉の途中で止まった。
《私も、郵便係はただ手紙を運ぶだけの任務だと思ってた。……貴方が怪我をして屋敷に現れたのを変だと思ってGに訊くまで、貴方の仕事にはなんの危険もないと疑わなかった…っ》
以前あるファミリーの情報をまとめた文書を運んでいたとき、そのファミリーが郵便馬車を襲撃してきたことがあった。
なんとか片付けたが、腕に怪我を負った。それを屋敷に着いたときになまえ様に問われて、うまく誤魔化せずに逃げたことは記憶に新しい。
《っ!…なまえ、様?》
《ファビ…。ごめんなさい。貴方の任務を、理解していなくて…》
堪えきれないように息を詰まらせたなまえ様に抱き締められて、心臓が大きく跳ねた。
彼女が謝ることなんてないのに。むしろ、なまえ様が郵便係を安全な仕事だと思ってくれたままでいれば、心配させることはなかったのに。
背中に回った手に、力が込められた。あたたかくて、柔らかい。もし姉がいたらこんな感じなのだろうか、なんて恐れ多いことを想像してしまった。
《私はボンゴレに忠誠を誓ったから、貴方に無理しないでなんて言えない》
耳に直接注がれた言葉に安堵する。郵便係はどんなことがあろうと、ボスと守護者様に郵便を届けなければならない。自分が怪我をしないように、などと考えることはできないのだ。
《この屋敷にいる限り私がファビから郵便を受け取る。だから、郵便を渡した後は絶対無理しないで》
体全体に触れていたあたたかさが、離れていく。
少しだけ名残惜しく思ったが、まだいつもより近い場所にあるなまえ様の顔を見つめると、マホガニーの瞳の中に自分がいた。
この瞳に今映っているのが、他の誰でもない自分だということに、涙が出そうになる。
《少しでも怪我をしたり、疲れていたら必ず言って。約束してくれる?》
《はい、約束します。なまえ様》
拒むことなど、できるはずがない。
彼女はボンゴレに忠誠を誓ったからこそボンゴレの任務を軽んじた己を恥じ、危ないからといって任務の妨げになるようなことは言わず、けれどできる範囲で最大限の気遣いを提示してくれた。
普通は一部下に、そのようなことはしない。自分を恥じたとしても、面と向かって謝ることなどしない。
どこまでもマフィアらしくない、なまえ様。
けれど貴女は、ボンゴレに忠誠を誓ってくれた。
《ありがとうファビ!絶対の約束よ》
ごめんなさいなまえ様。僕はこの時から異動を考え始めていたんです。
貴女を守りたいと、望んでしまったから。
郵便係、回想
「今日は元気?」
出迎えてくれる度に、彼女は開口一番こう言うようになった。
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