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きっと誰かいる、と遊銀は言った。 その【誰か】は鈴が自室を出てほどなくして見つかった。 「弓親さん…」 口の中で呟いて、足を止める。廊下の向こうから歩いてきた弓親は、鈴に気づいて驚いたように立ち止まった。寝間着と思われる、柔らかな若芽色の浴衣を着ている。 「鈴」 弓親は薄く笑った。鈴は近寄って小さく頭を下げる。ぬるい夜風が吹き、鈴の頬の刺青を髪が撫でた。 「歩くのが上手くなったね。気づかなかったよ」 言って、弓親は顔を上げた鈴を見て眉を寄せた。更木や一角に比べると華奢な手が頬に向かって伸ばされる。 「どうしたんだい? そんな顔して」 「自分、どんな顔してますか?」 鈴の頬を撫でる手はあたたかく、心地よさに思わず目を閉じる。 弓親は鈴の刺青に触れるのが好きだ。美しいものが好きだという彼は、鈴の頬に咲いた黒の花が好きなのだ。それ以外の意味はないことを知っているから、鈴は気にせずされるがままになっていた。 「んー、弱ってる顔?」 なんで疑問形。眉を寄せる鈴に、弓親は悪戯っぽい笑みを向ける。 「だって鈴のそんな顔、見たことないからね」 自分が表情に乏しいことは自覚している。鈴は苦笑して俯いた。 「今日、虚と遭遇しました」 「へぇ」 弓親は眉を上げた。立ち話もなんだからと、二人は歩き出した。隊舎の外へ出る道を進みながら、声を抑えて鈴は今日起こった事を話した。 「初めて虚に遭遇し、その体に触れました。自惚れかもしれませんが、自分ができる限り適切な対処をしたと思っています」 虚の資料は見たことがあった。映像も見た。自分の中にある知識そのままの、つまりは化け物だった。 だが、と鈴は奥歯を噛んだ。 生き物だった。生きていた。その叫びは悲しみに震えているようで、こんな生き物が存在するのかと、戦慄した。 斬られる瞬間も見た。美しいとさえ言える太刀筋だった。 鈴は困惑していた。まさか自分が、こんな根本的な問題にぶつかるなんて。 「自分、虫より大きなものを殺したことがないんです」 現世にいたころの記憶は、鈴にはもうない。だがそうだろうと思う。 できると信じていた。やることが正しいと思っていた。 だが、本当にできるのかと、初めて自分に問いかけた。 稽古は稽古、修行は修行だ。殺意が含まれたものがもちろんあったし、自分も殺意を込めた力を返した。それでも、鈴にはまだ実践の経験はない。 「自分の心がこんなに弱いとは知りませんでした。この身につけた力を、本当に振るうことができるのか…自信がなくなりました」 更木や一角、そして砕蜂が、これを聞いたらどう思うのだろう。鈴はそれが怖かった。 鈴が十三隊に入ることを疑うことなく修行をつけてくれた師達に、腑抜けとがっかりされることは辛い。山本や阿近にも世話になっているし、知り合ったばかりだが、銀嶺の期待に応えたいという気持ちも強い。 鈴の抱えている恐怖は、恩人達に報いたいという思いを上回りこそしないが、それ以下でもない。 そんなものを腹に抱いている自分が死神になったところで、かえって迷惑になりはしないかと考えてしまう。 「誰でも、見たくないものがあると思うんだよね」 ずっと鈴の話を黙って聞いていた弓親がぽつりと呟いた言葉に、顔を上げる。話しているうちにかなり下を向いていたらしく、首が痛い。 弓親は夜空を見上げたまま、ゆるく笑った。苦笑とも、自嘲ともつかない笑みだ。 鈴は首を傾げて弓親の横顔を眺める。 「見たくないものですか?」 「うん。僕にはあるよ。隊長と一角が楽しんで戦えない姿とか、隊長と一角に笑われる自分とか」 「そんな、弓親さんが笑われるなんて…」 たとえ話にしては現実味に欠ける内容だと眉を寄せた鈴に、弓親はふっと笑いかけた。今度はわかった。自嘲の笑みだ。 「その見たくないものを見ないようにするにはね、目を背けて逃げ出すか、真正面から見据えて斬って捨てるか、二つ手段があるんだよ」 自分を見つめる視線がすっと強くなり、鈴は思わずごくりと喉を鳴らした。 「鈴の見たくないものって、なんだい?」 優しい声音で問いかけられた質問の答えは、驚くほど瞬時に頭の中に浮かんだ。 「自分のように、虚の所為で死んでしまう人たちです」 そう、と弓親は微笑んだ。今度は心からの笑みで、鈴は目頭が熱くなった。 揺らいでいた自分の信念。その根本を、こんなにも簡単に再認識させられた。 それは、彼が揺らがない信念を持っているからなのだろう。 「二つの手段は、どちらが正しくてどちらが間違いということじゃない。さぁ鈴、君はその見たくないものから逃げ出すかい? それとも…斬って捨てる?」 鈴は静かに微笑んで、隊舎の方を振り返った。 ひとつだけ開いている自室の窓から、桜鼠の着物の裾が見えた気がした。 (どちらを選んでもかまわないと言ってもらえた) (だから自分は、選ぶことができた) |
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