ボスの心に亜麻色の花売り娘
「なぁ、少し休憩をだな…「駄目だ」
もう何回目かわからない提案を一蹴され、ボスは書類が山と積まれたデスクに突っ伏した。
いっそこの山が崩れてしまえばいいと一瞬思ったが、自分の仕事が増えて右腕の説教が追加されるだけなのですぐに考え直す。
すかさず頭を叩かれ、起き上がって書類へのサインを続ける。
視界の端では、先ほど現れた門外顧問が呆れた表情を浮かべてコーヒーを飲んでいる。
彼が求める書類にはまだ行き着かない。待たせることに罪悪感は覚えないが、何事にも動じないはずの青い瞳が、さっきから忙しなく入り口や窓の外に向けられていることが気になった。
「誕生日だからって今日は容赦しねぇぞ。ここ一ヶ月のお前の勝手な市街地視察の所為で書類が溜まりに溜まってんだからな」
「だから明日必ず全部片付けるって言っているだろう!」
「今日中に処理するべきものが半分も終わってねぇっつってんだ!」
「ヌフフッ。おやおや、賑やかですね」
ノックもせずに執務室に入ってきた術士を、ボスは眉を寄せて迎える。
彼が取りに来た書類にも、まだペンを入れていない。
術士はすたすたと歩いてくると、ボスのデスクに持っていた花束を置く。
眼前にささやかな甘い香りを感じ、ボスはオレンジ色の瞳を瞬かせた。
「まさか、お前が俺に誕生日プレゼントか?」
「おや。誕生日だったんですか」
それは丁度良かったと微笑む術士にボスは口をへの字に曲げたが、デスクに置かれた花束を見て門外顧問が反応した。
「それ…」
「ヌフッ。さっき外で買ったんです。綺麗な亜麻の花でしょう?」
「亜麻?亜麻の花って青いのか」
右腕が不思議そうに花束を見つめる。
たくさんの小さな青い花を、ボスは慈しむように見て頷く。
「あぁ。亜麻色というのは繊維の色だ。実際の亜麻の花はこういう小さな…」
言いかけて、ボスははっと腰を浮かせて置かれた花束を掴む。
《へぇ…花だけ見ると詩にある亜麻色とは結びつかないな》
《繊維も油も取れる優秀な花なんだよ。私、亜麻の花…好き。可愛いもの》
《そうだな。小さくて可愛い花だ。それに…亜麻色とはこんな色だろう?》
花束に触れた瞬間に、交わした会話が甦った。触れた髪の毛の感触が甦った。
「これは、どこで?」
問いかける声が微かに震えると、術士は怪訝そうに見返してくる。
「正門に立っていた小さな花売り娘ですよ。生憎現金しか持っていなかったので、食べ物が欲しいなら裏に回るように言いました」
なんてことを…。
ボスは愕然として花束を見つめた。
ただの花売りが、こんなに綺麗に作った花束を売り歩くことはない。
花売り娘が、ここへ…。
花を掻き分け、カードか何か入っていないか探して、そういえば彼女は字が書けなかったと気づく。
「花言葉!」
椅子を蹴倒し、右腕と術士がぎょっとするにも構わず本棚に駆け寄る。
彼女と一緒に読むために手に入れた、花言葉の載った植物図鑑。
ページを繰っていくと、小さな青い花の絵を見つけた。
《貴方の親切に感謝しています》
彼女が俺に会いに来た。
夕焼けに照らされ、震えて泣いていた出会い。初めて花を買った日。差し出されたビスコッティ。母との思い出の花言葉。指に引っ掛かる、柔らかい亜麻色の髪の毛。俺をボスと呼ぶ声。
あの小さな花売り娘が、たまらなく愛しいと思ったのは、いつからだっただろう。
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