蛇は蛙を馬車に乗せた。
花売り娘はエニシダを手折る
辻馬車の御者に小金を…といっても蛙の花売りの一週間分の稼ぎに匹敵する額はありそうなお金を握らせて、行き先を告げているようだった。
一緒に乗るのかと思ったが、金髪碧眼の蛇はそのまま街の中に消えていった。
馬車は、ボスがいつも帰っていく方角へ走り出した。
だが見慣れた風景はあっという間に後ろへ流れ、街を出た馬車は郊外を走る。
初めて乗った馬車は楽しいというより揺れて気持ちが悪く、すぐ外を見るのはやめてぐったりと椅子にもたれて目を閉じた。
しばらく眠りに落ちそうになっては揺れて起こされるということを繰り返していると、馬車がゆっくりと止まった。
降りると、道のど真ん中だった。御者が言うには、ボスのいる場所は辻馬車で乗りつけるわけにはいかないらしい。
このまままっすぐ行けばいいと言われて仕方なく歩いていくと、しばらく進んだ先に大きな屋敷が見え始めた。
「………」
門の前に立つころには、酷く消耗していた。
なんなんだこの大きさは。
こんな大きな建物は見たことがなかった。視界の全てが屋敷で埋まるころには、竦んでしまって何度か止まりかけた足を無理矢理動かして進んできた。
だが門の前に立ってから、どうすればいいのかわからなくなった。
門の向こうにはさらに道があり、それを通ってやっと屋敷に着くらしい。
だが門の前には誰もいない。誰かいれば…すんなり入れてくれるとは思わないが、ボスに名前を伝えてもらえば、会えなくても最悪この花束が彼に渡れば…。
頭の中でぐるぐる回る考えを持て余していると、馬の足音と車輪の音が近づいてくるのがわかった。
振り向くと、自分が乗ってきたものより一回りも大きい四頭立ての馬車が止まる。
一瞬どくりと心臓が跳ねたが、ドアが開いて降りてきたのは知らない男だった。
「こんにちは、お嬢さん」
少しだけ緑がかった青い髪の男はにっこり笑って私を見下ろした。
一瞬の間に馬車からボスが降りてくる妄想をするなんて、私はこんなにも想像力豊かだっただろうか。
「どうしたのですか?ここで一体何を?」
笑顔のまま問いかけられて口を開きそうになったが、黙る。
ボスが出てくるまでここで待つとか、そんなつもりはなかった。だが口の中に貼りついたように舌が動かない。
すると男の手がすっと伸びた。
思わず首を竦めたが、手は真っ直ぐ花籠に向かっていった。
あ、と気づいた時には、ボスのために作った花束は男の手の中にあった。
「ほぅ。これはなかなか綺麗な花束ですね」
「あのっ、それは……」
返してくださいと言おうとした途端、鼻先に札束が現れた。
ぼやける視界の端で捉えたお札の額は数年分の収入に匹敵する。
ありえない金額に固まっていると、男の声が降ってくる。
「おや。これでは足りませんか?」
「ちがっ」
そういう問題ではないのだと言おうとすると、男があぁ、と納得したように呟いた。
「食べ物が欲しいのでしたら裏へ行けば何かしらもらえますよ。次からは正門じゃなくて直接裏へ行くといいでしょう」
がつん、と頭を殴られたような衝撃を受けた。
呆然としていると、男はさっと籠の中にお札を放り込む。
我に返った時には、男はすでに門の向こうに行ってしまい、伸ばした手は空しく宙を掴んだ。
《ボスに会うのは簡単で…難しいよ》
あの言葉の意味が、今やっとわかった。
だって私は、ボスの名前も知らないのだから。
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