私が【ボス】に出逢ったのは、この街に来て三日が経った日のことだった。
花売り娘はアジサイと泣く
「帰らないのか?もう日が暮れるぞ」
隣に誰かが立ったのには気づいていた。
けれど顔を上げるのが面倒臭いのと、川の水面に映る空がオレンジから藍色のグラデーションになっていくのが綺麗で、膝を抱えたまま見ていた。
声をかけられたのは、15分は経ってからだった。
若い男の声だと思ったけど、顔を上げる気にはなれなかった。
膝の上に顔を載せたまま無言を貫いていると、とさっと音がして、肩に何かが触れた。
声をかけてきた男が座ったのだと、視界の端で捉えた。
不思議と危機感は湧かなかった。
「迷子か?」
「違う」
反射的に答えてしまった。
迷子なんて不名誉な濡れ衣を着せられたくなかったから。
間髪入れずに答えたことがおかしかったのか、喉の奥で笑ったような、低い声が聞こえた。
「じゃあもう一度訊くぞ。帰らないのか?」
心地良い声だった。滑らかで、あたたかくて、優しい。
聞いているだけで涙が出そうになって、膝を抱く手に力を込める。
「父さんに…叩き出された」
涙声にならないように、呟く。
四頭立ての馬車に、売り物である花が入った籠を引っ掛けられたのだ。
あ、と思った時には花は地面に散らばり、後続の馬車がそれを全て踏み荒らして去って行った。
仕方なく家に帰ったら、待っていたのは父の平手だった。
全部売るまで帰ってくるなと言われて叩き出されて、仕方なく街に戻ってきたのだ。
売り物が全滅したというのに、全部売って来いなんてむちゃくちゃだと思ったが、酒浸りの父に何を言っても手足が飛んでくるだけなので、言い返したりしない。
酔い潰れて眠るまで時間を潰せばいいだけの話だ。
「それは…腹が立つな」
そう聞こえたかと思ったら、あたたかい手が頭に載せられたのがわかった。
途端、目の奥が熱くなり、じわりと涙が盛り上がる。
もう堪えられないと思い、膝に額をくっつける。
そう、腹が立ったのだ。
籠を引っ掛けた馬車も、花を踏み散らした馬車も、謝りもしなかった。こちらを向きもしなかった。
駄目にされる前に売った分のお金だけぶんどってから、娘を簡単に叩き出す父。
悔しかった。腹が立った。
悔しくて悔しくて、後から後から涙が零れた。
膝に顔を埋めて泣く私の頭を、男の手が優しく撫でてくれた。
それに枷を外されたようで、私は夢中で涙を流した。
気づいたら、頭の上の温もりは消えていた。
泣くのに夢中になっている間に、男は立ち去ったらしい。
少し寂しく思うと同時に、泣き顔を見られなくてよかったと安堵した。
だがすぐに、やっぱり顔を見ておけばよかったと思った。
また、会えるだろうか。
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