花売り娘のprimo amore | ナノ






 花売り娘はたったひとりのボスを想う









 真っ直ぐ走っていたら、いつのまにか街に着いていた。

 なんだ、近いじゃないか。

 金持ちっていうのはこんな近い距離も馬車で移動するのか。



 黒い感情が湧き上がり、唇を噛み締める。

 違う違う。こんなことを思いたいわけじゃない。





《ボスに会うのは簡単で…難しいよ》





 金髪の蛇の言葉がぐるぐると暴れる。

 屋敷に行って理解した。

 私が今までボスに簡単に会えたのは…彼が会いに来てくれたからだ。

 ボスが会いに来てくれたから、私は彼と話せ、彼に触れられた。

 けれどボスは…あんな大きなお屋敷に住むマフィアのボスなのだ。

 会いたいと願っても、容易に会えるはずのない人なのだ。



 彼との世界が違うことを、気づいていなかったわけじゃない。

 ボスが優しくて、彼と共に過ごす時間が幸せ過ぎて、考えないようにしていたのだ。

 母が消えてから、楽しいことなどもう何もないと思っていた。

 でもボスに出逢えた。

 彼は私の世界を照らしてくれたファンタジー。

 ボスを…現実世界に欲しいと望んでしまった私は、いずれこう思い知る運命だったのだ。



 私はボスに相応しくない。

 そう思った瞬間、涙が溢れた。


 拭うことはしない。止まらないことがわかっているから。

 次々と浮かぶボスとの思い出。感謝の気持ちを伝えたかったのに、届かなかった花。


 もう会えない。

 気づいてしまったから。

 気づかないふりをしてきたけど、もう無理だから。

 自分はこんなにもちっぽけで、こんなにも子ども。

 ボスに甘えていた、子ども。無償の幸せをもらった、花売り娘。


 嗚咽の所為で上手く呼吸ができなかったけれど、それでも走り出す。

 やはり私は花売り娘。それはどう足掻いたって変わらない。

 だから今一度求めよう。





 彼に贈るに相応しい花を。





* * *





 まるで絵画を見ているような、そんな気持ちになった。





 右腕を振り切り、鞍もつけず馬を街へと走らせた。

 いつもの雑貨屋の前に花売り娘の姿はなかったから、家まで向かおうと馬を方向転換させた時、そこに彼女は立っていた。

 両手で抱えるほどの、鮮やかな青い花を持っていた。儚げな色合いの亜麻とは違う、はっきりしたシアンの青。名前がわからない、花。

 つぎはぎだらけのドレス。下ろしっぱなしの亜麻色の髪。

 視線が絡み合うと、花売り娘は驚いたように目を瞬かせた。

 わずかに動いた口は「ボス」と言ったように見えた。

 馬から降りると、花売り娘が駆け寄ってきた。何か言おうとする前に、持っていた花を押し付けられる。


「うおっ」


 慌てて両手で受け取ったが、2、3本零れて地面に落ちた。

 しょうがないなぁと言ってそれを拾う花売り娘の小さな頭を見ていると、嫌な予感がした。

 背中に冷たいものが伝う感じ。


「ボス。来てくれてありがとう」


 花を抱えている所為で、花売り娘の顔の下は青く縁取られて見えた。

 笑顔を浮かべる彼女の目元が赤いのを見て、嫌な予感はほとんど確信へと変わった。

 恐怖した。

 それは避けられないのだと…避けてはいけないのだと、直感がそう言っていた。


「今のことだけじゃないよ。今までも、私に会いに来てくれてありがとう」

「花売り娘。いいんだ…。そんなこと、いいんだ。俺は…「今度は私が会いに行く」


 強く。そしてはっきりと遮られた。

 凛とした声に気圧される。10も離れた、花売り娘は真っ直ぐにこちらを見ていた。










「私、ボスが大好き。だから今度は…私がボスに会いに行く」