「いらっしゃいませお客様」 鉄の重たい扉を開けると、温かい光と共に女の子の声が出迎えてくれた。僕の隣で「彼女」がギュッと手を握ってくるのが分かる。 「わたし、お客様相談係のナマエと申します。今日はどのような自殺をお望みですか?」 腰を折ってお辞儀をし、朗らかな笑顔を向ける黒スーツの女の子。 ますます「彼女」は僕の腕にしがみついてきた。少し怯えた目で僕を見つめ返す。僕だって怖い。しかしここまで来て引き下がれるわけが無い。 僕は生唾を飲み込んだ。 「心中をしたいんです」 * 「昨日いらっしゃった心中自殺のお二方…、男性のほうが自殺されなかったみたいです」 ゼツさんから報告が。 ナマエは机を挟んで座っているピアスを付けた男に笑いかけた。 「…すぐ行こう」 書類に判子を押す手を止め、男は椅子から立ち上がった。近くのポールハンガーに掛けていた黒のロングコートを羽織る。 「場所は何処だ」 「△△△市にある海の崖です。ほら自殺スポットで有名なとこですよ店長!」 アカツキ自殺用品専門店の店長を務める男…ペインは心中自殺の担当職員でもあった。 先日、心中をしたいと店に来た一組の若い男女に飛び降り用の鉄の重りと心中専用のロープを勧めたが、どうやら未遂に終わったらしい。 「残業」は面倒だ。隣のナマエは楽しげに「自殺スポットに行くの久々なんです。楽しみですねぇ」と不謹慎なことを口にしているが。 「客には敬意を払えといつも言っているだろう」 「あら、失礼」 「…行くぞナマエ」 ペインは黒の中折れ帽を目深に被り、部屋を出た。ナマエも臙脂色のマフラーを首に巻きつけ後を追うように出て行った。 * 真っ赤な夕焼けの空の下の断崖絶壁。二つの黒い影と一人の若い男がそこにいた。男は顔を真っ青にして膝をついたまま、自分の足元に転がるロープと鉄製の重りを見つめている。 「×××様、この度は自殺が実行されなかったようですのでアフターサービスに参りました」 「……」 「心中ということでしたが……おやぁ?お相手の方が見当たりませんね?」 ナマエはグリップボードの資料をめくりながら大袈裟に首を傾げた。 男はやっとぼんやりとした目を上げる。 「彼女は死にました。崖から落ちて…」 崖に波が打ち付けられ、大きな音が響く。カモメも五月蝿く鳴き始めた。 「あら、でもおかしいですねぇ。見たところ当店の商品はまだ使用されていないようですが。普通ならお二人の足にロープと重りが結びつけられている筈ですのに…」 どうして貴方だけが生き残っているんです? お多福の仮面のような顔がやんわりとした口調で問うた。ペインは隣で無言のまま客を見据えている。 青年は「そ、それは…」と口ごもって拳を握り締めた。その様子を見てナマエは首を傾げたまま眉根を寄せた。 「死ぬのが怖くなったのではありませんか?」 「…違う、僕は…!」 「だから心中間際になって貴方は…」 反論する青年にぐっと距離を詰めて歩み寄る黒い影。影は微かにふふふと笑う。 「その崖から、恋人を」 「やめろナマエ」 ナマエの肩を掴んで止めたのはペインだった。輪廻の模様が刻まれた双眼には静かな憤りのようなものがこもっている。 ナマエは馬鹿ではなかった。睨みつける瞳と肩に食い込んだ爪から、逆らえば店主が自分をどんな目に遭わせるかは容易に想像ができた。 「憶測で軽々しく喋るな。そして顧客には敬意を払え。…何度も言わせるな」 「申し訳ありません、店長」 ペインが肩を離すと大人しくナマエは退く。爪が食い込んでいた肩にはじわじわと痛みが続いていた。 ペインは改めて客の青年に向き直り、従業員の無礼への謝罪を述べてから話を戻した。 「貴方を自殺させに我々は此処へ来た」 「……契約書に書いてあったアフターサービスってやつですよね?」 「そうだ」 ペインが頷けば、男は少しだけ考える素振りをした後立ち上がって崖の方へ歩いていく。 「……何をするつもりだ」 「貴方達の手は煩わせません。僕は一人で死にます」 「……そう望むなら」 男は足に鉄の重りをロープで結びつけた。固結びでちょっとやそっとでは外れないように。結び終わると男はしばらく長い間夕日を見つめていた。そして肩越しにペインとナマエを振り返る。 「そこの店員さんの言った通り、僕は死ぬ寸前で怖くなりました。二人で飛ぶことはできなかった…。そんな情けない僕に彼女は言ったんです」 背中を押して。先に待っているから。 男はふっと微笑んだ。そしてゆっくりと崖の方へ向き直る。遥か下にはどす黒い海が広がっていた。打ち付ける波の音が唸っている。ぱらぱらと小雨が降ってきた。波風が崖の上の三人の髪を乱す。 「わざわざ来て頂いてありがとうございます。では、彼女が待っているので」 両手を広げ、目を閉じる。 男の体は黒檀のような海へ落ちていった。まるで撃ち落とされたカモメのように。 「いってらっしゃいませ」 ナマエはそう呟くと恭しく頭を下げた。 * 「仕事中に私情にとらわれるな」 客の青年が崖から飛び降りた後、報告書を書くナマエの背中にペインが言った。厳格で咎めるような口調だった。先ほどの客への問い詰めがあまりに無礼であったからだ。 「嫌ですね店長。私情なんて持ち込んでませんよぉ」 「それにしてはやけに噛みついていたじゃないか。心中に何か未練でもあるのか」 バキッ その時報告書の紙の上でシャーペンの芯が折れた。 「ありませんよそんなもの」 「……」 「とうの昔に忘れました」 ナマエは背後を振り返らずに言った。顔は見えない。しかし声色はいつもの朗らかなものとは全く違う、冷めきった低い声だった。 「わたしはただ、あのお客様が死を拒絶するつもりかと早とちりしただけです」 「だが、死んだ」 「当たり前じゃないですか」 カチカチとシャーペンの頭を押す。寒さのせいかペンを握るナマエの指先は赤くかじかんでいた。 「大切な人を海へ捨ててまで生き延びるなんて…そんな惨いこと許されませんよ」 死んで正解です。 一層低い声でそう言った。 海風が吹き付けて、ナマエの首のマフラーがひらひらと踊る。まるで首吊り縄のようだと、ふとペインは思った。おそらく彼女が常に死を望み、自分以外の全ての他者もそうだろうと考えている歪んだ妄想を持っているからだ。 しかしナマエは死なない。毎日何人という自殺志願者と顔を突き合わせていても、ペインのような自殺用品を売りさばく人間が身近にいても彼女は今だに死のうとはしない。 「そこまで死を望むのに、何故お前は自殺しない?」 ペインは思わずそう口に出していた。 ナマエはふっと振り向いた。そこには毎日貼り付けている笑顔の面があった。 「わたしはこの店にいる限り死ぬことはできませんから」 死に固執し、生に縛り付けられる一人の女。彼女の首に巻かれたマフラーは今一度見れば首を吊るための縄にも、拘束の縄にも見えた。 『我々は、大人も子供も、利口も馬鹿も、貧者も富者も、 死においては平等である。』 ガブリエル・ロレンハーゲン 20150325 |