「主人ならもうすぐ帰って来るかと思いますので、奥の座敷でお待ちくださいませ」 女はたおやかな身のこなしで客人を案内した。洗練された動作の一つ一つは女の育ちの良さを物語っているようである。 客間に通された客人の前に朱盆に乗った茶碗と菓子が出された。 「熱いのでお気をつけてお飲みになってくださいね」 女はにこりと柔和な笑みを浮かべてみせた。 容姿、所作、全てにおいて非の打ち所がない、よくできた妻だと誰の目にも映るだろう。 「うちの義母が茶碗集めが好きですの。この間なんてお義兄さんを引っ張って展覧会に行ったんですよ」 高尚な趣味も行き過ぎると困ったものでしょう。茶碗を見つめながら上品にくすくす笑う女。 客人の男は女をじっと見たまま、茶碗には手をつけずに口を開いた。 「一人芝居が上手いんだな」 「は、」 女の紅をさした唇から微かに息が洩れた。 「何を」 「なまえ。国の大名補佐の妻であり、特異なチャクラ性質を持つ忍一族の正統後継者」 女の顔がさっと青褪めた。 温雅な白磁の顔に爪の先ほどのヒビが入る。 「夫を殺してさらに義母と義兄夫婦まで手にかけ、挙げ句に大名と重役とその他忍数十名を惨殺。小国一つを壊滅の危機に追い込んだ連続殺人鬼」 それがお前だろう。 輪廻の刻まれた眼で見据えられ、女はびくりと肩を震わせて顔を引き攣らせた。ひゅーひゅーと喘息の発作のような呼吸をしている。 「仰っている意味がよく分かりません、何を馬鹿なことを」 「お前は既に貞淑な妻ではない。此処はお前の家でもない」 「正真正銘、此処は私の家です!」 初めて女は声を荒げたかと思うと、畳に爪を立てて突っ伏す。男は溜息を吐いて立ち上がり、ぐるりと「家」を見渡した。 「家」は古く狭い荒れ果てた家屋だった。木製の床も天井も所々が損壊し、室内は蜘蛛の巣や埃にまみれている。畳は腐り、障子は破け、風雨にさらされた「家」は廃墟同然だった。 抜け忍になったなまえはずっと此処で大名補佐の妻であった頃の郷愁から生まれた妄想に一人で浸っていたのである。 男は静かな目で床に泣き伏すなまえを見下ろした。こうして見ればただのか弱い未亡人にしか見えない。 「……お前は何故夫を殺し、自ら居場所を捨てたのだ?」 啜り泣く声が止む。 「……居場所?」 伏せていた女は顔を上げた。真っ赤に腫れた両目で男を見上げる。 「あそこは居場所なんかじゃない」 ひくひくと口角が吊り上がる。瞳孔の開いた黒々とした瞳が揺れた。優れた妻の仮面は綻び、腐った肉の本性が姿を現し始めた。 「一族の血をより良い家に残すため、お母様は私に幼少のころから花嫁修業をさせた。毎日、毎日…。そして大名補佐のあの人の処へ、お母様は頭を下げて私を嫁がせた」 どこへ出しても恥ずかしくないように躾けてまいりました何卒ヨロシクお願いしますって。 上擦った声がひっひっひっと品がない笑いと共に物語を聞かせる。 「あの人は、私を愛してなくて、求められるのは肉体だけ。姑も義兄夫婦も私を嫌って虐めてこき使った。私はお母様の言いつけ通り都合良い慎ましやかな妻を演じ続けた。 全てはうちの一族の血を絶やさないためよ、それだけのために私頑張ったの!頑張ったんです私!」 ヒステリックな金切声でまくし立て、なまえは髪を掻き毟った。腐臭を放つ醜い内側がぼろぼろと剥がれ落ちるように、女は馬脚を現した。 「……子供が生まれない体だって知らされて全部どうでもよくなっちゃったの」 だからみんな殺してしまったんです。 ふっと思い出したように清婉な仮面をかぶり直し、女は微笑んだ。 泥水を淹れた茶碗を盆に乗せて女は静かに立ち上がった。 「それで、私に何の用で来たんです?」 「なまえ、お前を我ら暁に誘いに来た。お前の血族の力を俺たちは必要としている」 此処で妄想にとらわれている理由はもう無いだろう。 暁の首領、ペインは女の身の上話を聞いても無表情のままであった。まるで興味がないというふうに。 なまえはそんな彼の要求を聞き、目を細めた。がしゃんと盆が床に落ち、茶碗が割れた。濁った水が飛び散る。 「まぁ、面白そうですね」 「聞き分けが良くて助かる」 「どこへ出しても恥ずかしくないように躾けられていますから」 冗談っぽく言ってのけるなまえを鼻で笑い、ペインは背を向けた。 「一つ問おう」 「何でしょう」 「……其れ程“家”が厭だったのなら、何故その一人芝居を続けていた?」 ペインの問いで、沈黙が二人の間に流れた。廃墟には家鳴りと隙間風が吹き込む音だけが響いている。 暫くして女が口を開いた。 「だって私、完璧な妻を演じてる自分が好きなんですもの」 ペインは背を向けながら女が笑っているのが分かった。人が彼女を「鬼嫁」と呼ぶ所以がここに在る。 20141025 |