*フェルディナンド博士♀と
*名前ありモブ注意

午後の三時をまわった頃だったか、喜ばしくはない客人が家に訪問して来た。
「先生どうでしょうか、お原稿の進み具合は」
玄関口に立つ男はどこか含みのある笑いを浮かべている。対する私は、今すぐにでも扉を閉めたくてたまらない気持ちで右手をそっと引戸へ移動させた。
じろりと男の端正な顔から格好へと視線を移す。洒落たジャケットと整髪料を塗りつけてオールバックに整えた髪。一見身なりは良いものの、やはり浮ついた本性が滲み出ている。
男は館林と云う。某大手出版社に勤めている中堅文芸編集者で、今の私の担当編集である。
「ぼちぼち書き始めた頃…ですかね」
「ぼちぼちですか」
そして昔…少しだけ男女の付き合いのあった男だ。「これ」は、私の忘却してしまいたい苦々しい過去の一つである。
「先生はいつも締切前日まで粘る方ですからねぇ、よく分かってますよ」
私を知ったような口ぶりで話す館林は担当としてではなく、元恋人としてそこに立っていた。
以前担当としても恋人としてもお互い離れ、こうして会うのは二度目である。別れて以来、今まで連絡も何もしてこなかったというのについ先月くらいに、担当が変わって自分になったのだという電話を唐突にかけてきた。その時の電話越しの声も、今話しているのと同じで何の悪びれもない声音だった。
「先生、顔色が悪いですよ?体調が悪いんですか?」
館林が私をわざと仰々しく「先生」と呼んでくる度に胸に苦い汁がたまっていくようだ。
編集部の他の女に目移りし、自分から別れを一方的に切り出して絶縁したというのに、平気で私の担当に戻ってきたこの男の思考が理解できない。
ふと館林は私にいきなり顔を近付けてきた。鼻をつく整髪料の臭いに思わず身を引く。
「あの編集部の女とはもう終わったんだ。なァどうだろう?よりを戻さないか?ええ?」
あまりの嫌悪感で鳥肌が立った。
「……もう帰ってくれないか」
「先生」
「これから仕事がある」
「考え直してくれよ」
五月蝿い。
まだ何か言いたそうな館林を突き飛ばすように押し出し、ぴしゃりと戸を閉めた。そして殴りつけるように錠を下ろす。
怒鳴りたいことは山ほどあった。しかしこうでもしないと怒りで我を忘れ、館林の首をあの派手なブランド物のネクタイで絞めあげてしまいそうだった。
引き戸を数回叩く音がしたがすぐに止み、足早に遠ざかる靴音で館林はそそくさと帰ったのだと分かる。彼奴にとってつまりはすぐに諦められる程度の女なのだ私は。別に諦められても構わない。むしろ両手を挙げて万歳をして喜びたい気分だ。
しかし何故だか悔しくてたまらない。
広い玄関で一人、腰を下ろしてため息を吐いた。ああ、憎らしい。あの男に対しても、過去の愚かしい自分に対しても。
「先生」と嘲ったように薄笑いで呼ぶあの声が耳から離れなくて苛々する。膝小僧へ額を押し付けるようにして、膝を抱えた。傍から見れば玄関口でこんな奇妙なことをしている私はとても間抜けに見えるであろう。
先生…、ああ、先生か……。同じく私を先生と呼んでいた「彼女達」に思いを馳せる。先生と呼ばれるなら矢張りあのかわゆらしく美しい女の声が良い。
己の夢の中の産物に思考を移せば、ささくれだった私の心は幾らか穏やかになった気がした。嗚呼この不快に打ちのめされた今こそ、甘美な夢に浸っていたい……。



「あの男は何だね」
ふと、降ってきた声に思わず顔を上げる。見れば、いつの間にか私の隣に一人の女が座っていた。長い脚を投げ出すようにして腰を下ろし、私をじっと睨みつけている様は如何にも高慢そうである。
不思議な女。この感覚はきっとあの現象に違いない。だとすればこれは夢なのか?しかし私は眠ってはいないはずだ。ならば何故、夢の中の幻が此処に居るのだろう。
「おい…私が話しかけているんだ。聾(つんぼ)で無いのなら返事をしろ」
朧な記憶を思い出すのに気を取られて黙っていた私が気に入らなかったのか、目の前の女が肩を小突く。正確には小突くというよりは突き飛ばすというくらいの力加減だったので、思わずよろめいて後ろ向きに肘をついた。予想外に尊大すぎる態度に呆気にとられてしまう。
「いきなり突き飛ばさなくとも……」
「一回で返事をしないからだ」
当たり前のようにそう言い放ち、女はふんと鼻を鳴らす。今まで視た女達の中でこれは一等に傲慢な女だと思った。
しかしそれでも私が不平不満を漏らさずに押し黙っていたのは、一重に彼女が美しすぎたからだ。
床に転げたまま、しげしげと女の姿を見守った。年頃は三十代前半といったところだろうが、色が白いのと華やかな化粧のお陰でずっと若く見える。ツンと尖った鼻、気の強そうなアーモンド型の瞳、鶴のように細い首、ストッキングに覆われた長い脚……まるで職人の手で精巧に作られた陶器人形のように、美しい部品が全て揃っている。
この呼吸をする芸術品を目にしても黙らない者が果たしているだろうか?
「いいだろう…間抜けのお前の為にもう一度聞いてやる。さっきの、あの男は何だ?」
彼女は話を仕切り直して、やや身を乗り出しながら再び執拗に聞いてきた。姿の無い館林に思わず嫉妬したくなる。
「私が作家をしているのは知っているね?“あれ”は編集部から来た担当だよ」
詰め寄ってくる彼女に平静を装って答える。
実際はというと、全身の筋肉が硬直し、視覚神経もそれに従って緊張し出して、彼女の隅々を見て取らないではいられなかった。至近距離で見る長い睫毛や、貝殻のような形良い耳朶、ほんのり紅く染まる白い額と色素の薄い髪の境目のところ。その全てに雀躍し、下っ腹から上へ上へと水が湧き上がるような焦燥すら感じた。
しかし上機嫌な私に反して、彼女のほうは眉をきゅっと顰めて睨みつけてくる。
「それにしては、やけに親しげに話していたが」
「それは…えっと、ううん」
私が口篭ると彼女はおおかた見当がついたというふうに頷いた。
「“男”なんだな、つまりは」
「勘違いしないでほしい。もう終わった関係だ。……し、しかし、どうしてそんなにあの男ことを聞くんだ?」
「……気に入らないからだ。どうせロクな男じゃあなかったんだろう?」
ずばり図星であった。黙るしかない。
その様子を見て女は益々機嫌を悪くしたのか、上品な赤い紅を引いた唇をあからさまに歪めた。
先程から私は彼女を失望させてばかりだ。
「馬鹿な男に引っかかるお前も呆れた女だな。眼球でも洗って出直して来たほうが良いんじゃあないか」
酷い言われようである。普通だったら「君にそんなことを云われる筋合いは無い」と一喝し、憤慨しているところだ。しかし、今の私の心は気の毒なほどに萎え凋んでしまっていた。そもそも彼女の言葉は辛辣だが正論なので、追い討ちをかけるように私を打ちのめす。
それに何より彼女は眩しいくらい美しい。これでは反抗しようという気持ちも起きない。
「すまなかった……確かに私は馬鹿な女だよ、認めるよ。ねぇ、だからそう機嫌を損ねないでくれ。もう…もう堪忍してくれないか…」
折角来てくれたのに、君を怒らせるようなことをしてすまないと頭を下げれば、女はむっつり顔でじっくり私を見据えた後、ようやっと赦してくれた。
「ねぇ、そして……良ければ私を先生と呼んでくれないだろうか?」
「先生?私がお前をか?厭だね、面倒くさい」
「さっきからあの厭味な男のセンセイ、センセイとしつこく呼ぶ声が耳から離れなくて困ってる。だから君の聲で呼ばれたい。一言でも良いンだ、そうしたら少しは苦痛から解放される気がする」
私は彼女の肘に縋って嘆願した。こんな小っ恥ずかしい頼みをするなんて、自分が自分では無いみたいだ。これも目の前の彼女の魅了のせいか。
彼女は一瞬驚いたような顔で私を見ていたが、やがて猛然として、図太い、大胆な表情を浮かべた。西洋人独特の真っ青な瞳が蠱惑的な光りを放つ。
女は肘に触れている私の手を払い除けると、すこぅしだけ身を屈めた。香水か白粉か、爽やかな洋梨の香りが鼻孔をくすぐった。
「先生」
「うん」
「先生」
「うん…」
息が詰まるくらいの幸福感で満たされた瞬間だった。眩暈に似た恍惚が訪れる。
「先生」という言葉一つで、あの下賎な館林とはこうも違うのか。……否、今はあの男のことは忘れよう。
先生と呼ばれる度にうんうんと返事をして快楽に酔う私は宛ら阿片中毒者のようだった。夢か現かも分からぬこの怪しげな状況に対して、疑ることや考えることを放棄していた。
これは究明を妨げる彼女達の罠だろうか?ふと、頭の隅で思う。しかしすぐに「先生」と囁かれる声に脳内は掻き乱され、まるで眠りにつくように意識が薄らいでいった。
これが夢なのか現実なのか、結局この時も分からず終いであった。


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