*ディスコ♀と

はた、と原稿用紙の上でまた万年筆が止まってしまう。書けないのだ、続きが。まだ一枚目の半分もいってないところだというのに。
頭の中がぐちゃぐちゃとして、気力が沸かない。ぼんやりと傍らに置いた小説の構想を練った大学ノートをぱらぱらと眺めてみたりしてみるが、一つも言葉が思いつかなかった。
とうとう万年筆を握っているのも億劫に感じられて、思わずことんと置いてしまう。
こんなことを明朝から昼過ぎの今まで繰り返している私は、まるで海底に漂う石ころか海藻のように虚ろであった。
この作品を産むまでの息の詰まるような時間と、担当編集の方のやんわりと急かすような電話口の声を思い出すと、私が小説家になったのはただの偶然だったのだと思いたくなる。高等学校二年の冬休みを使って書いた小説が文藝賞を受賞したのも、官立大学二年の時に書いた小説がまた受賞し、加えて掲載された文藝雑誌の最多発行部数を更新したのも。
偶然だと思い込めば、少しでもこの執筆を投げ出したいという気持ちの罪悪感が軽くなる気がする。もっとも、虚しい慰めにしか過ぎないのだが。
祖父から譲り受けた黒檀の文机にだらしなく頬杖をつきながら憎らしい原稿用紙を睨みつける。
「悪女のまほろば」
丸くて癖の強い自分の字で書かれた題字。
悪女、そう私は悪女が書きたいのだ。女として魅力の無い、渇ききった自分のような女とは相反する、女性(にょしょう)の艶めかしさをなみなみと溢れさせ、他の人間を肥やしにして咲き誇る存在を。しかし相反する存在だからこそすんなりと書けないのだ。過去作も女性の陰のある美しさを題材に書いたものばかりだが、その時の執筆もだいぶ骨を折った。
今回の作品ではさらに違う妖婦を取り上げて書きたいのだ。自分の過去作の女を越える、もっと強烈な個性があって、あくどい、それでいて人を魅了する才を持ち合わせた女。
しかしそんな人物など現実に都合よくいるわけが無い。
私の過去作の女達にリアリティが無いのは名著の中の悪女や、友人から聞いたむかつく酷い女の愚痴を聞いて想像を膨らませ作り上げた産物に過ぎないからだ。
嗚呼…もしも相応しい実物のモデルがいたならば、インスピレーションが湧いて執筆が捗るのだろうか。
モデルが、モデルがほしい。
目を見張るほどの美しい悪女が。
夢想に耽りながら瞼を閉じる。温かく柔らかい泥のような睡魔にずぶずぶと沈んでいく感覚があった。
意識を手放すのに、何の抗いも無かった。





不思議な夢を見た。
私は誰かの膝枕で仰向けに寝かしつけられている。目を閉じたまま手探りで、頭の下の脚に触れた。すべすべとした膝頭で女性だと分かる。
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、女がこちらを覗き込んでいた。天井の明かりが逆光になって顔は影法師のように翳っているが、見知らぬ人間であることは分かった。
君はいったい誰だね、と吃驚して聞きながら頭を膝枕からどかして畳に手をついた。傍から見たらそれは腰を抜かしたようにも見えて酷く滑稽な姿だったろう。
女はそんな滑稽な私をぼんやりと見つめているだけだった。
明るい電球の下で露わになった女は美しい西洋人の顔貌をしていた。癖の強い黒鳶色の髪の毛がふわふわ揺れてかわゆらしい。こんな黴臭い日本家屋よりも西洋の明るい庭園のほうが居場所としては似つかわしいに違いないという程である。
私は益々吃驚してしまう。英語もまともに話せない私に西洋人の知り合いなどいるわけが無い。そして、小心者の私は相手が西洋人と分かった瞬間に緊張が増した。西洋人ならば先程の質問は理解できていなかっただろうか、とまごまごしていると女は赤くて小さな唇を開いて「せんせい、目が覚めたの」と、聞き取りやすい日本語で静かに囁いた。まるで活動の吹き替えを観ているようで不思議な心地だったが、「これは夢なのだ」と思うことで納得がついた。一度そうして夢だと自覚してしまえば目の前の女への警戒心もふっと薄れる。
「私は先生と呼ばれる心当たりが無いのだがね」
「せんせいはせんせいでしょ。作家のせんせい」
「嗚呼、なるほど」
「……せんせい今日は何だか余所余所しい」
「今日は…って君は頓珍漢なことを云うのだね。私と君は初対面の筈だが」
私が苦笑いをすれば、目の前の彼女はこてんと首を傾げる。(洒落たデザインのトレンチコートの下からでも分かるくびれる所とふくらむ所がはっきりした艶かしい体つきと反したその幼げな仕草に、なんだか私はこそばゆいような歯痒いような心地がした)
そうして彼女は、大きな潤いのある眼で不思議そうに私を見つめた。長い睫毛で縁取られた中身は一面に真っ黒で、真っ黒な鏡面には私の姿が鮮やかに映っている。なんだか彼女の瞳には沼の淵に身を乗り出して底を覗き込んでいるような危うさがあった。しかしそれが恐ろしいとは思わなかった。寧ろ、溺れて死んでもいいと一寸だけ思った自分がいたのであった。
「せんせい、もう一度眠ったら」
涼しい顔つきで彼女は焦茶のコートとスカートの裾から白い腿と膝をおいでというふうに晒す。純粋に、綺麗な脚だと思った。同じ女でありながら私の短い脚とは大きく違っている。
じゃあお言葉に甘えて、と私はすんなりと彼女の膝を借りることにした。普通ならば見ず知らずの人間の膝に頭を乗せるなどしない。だが、どうせこれは夢だ。ただの甘い夢なのだ。ならば一度溺れて死ぬくらいなんだというのだ。
横向きに頭を乗せるととても柔らかいとはいえないものの、白い腿はひんやりとして気持ちが良かった。
膝枕などしてもらうのはいつぶりだろう。幼い頃に郷里の母に耳掃除をしてもらった時くらいしか経験が無い。妙にどきどきして緊張する。本当にまた眠れるのだろうかと些か心配になった。しかし女がおやすみなさい、と静かに囁いて頭をくしゃりと撫でるので目をつぶらねばならぬ気がした。目を閉じてからすん、と深呼吸するとチョコレイトのような女の甘い薫りが鼻腔をくすぐる。そして睡魔が急に脳味噌を蕩かすように襲ってくる。
「せんせい、おやすみなさい」
眠りに突き落とされた瞬間にも、私は女の黒い瞳を思わずにいられなかった。


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