イヤよイヤよも今のうち
*フェルディナンド博士と
*嘔吐表現注意

磨かれた白い便座がまぶしい。吐瀉物の落ちる不快な水音が耳を舐める。
私はとにかく、脳裏に焼き付いたあの醜悪な造形を追い出したかった。大統領が引き連れてきた、《あれ》のことだ。
思い出した瞬間に再び吐き気が襲ってきて、また便器に頭を沈み込ませた。
呼吸するのが苦しい。
吐瀉物が指の隙間からこぼれ落ち、手袋が汚れてしまったことに内心舌打ちした。
あいつを見た瞬間気分が悪くなり、ここへ駆け込んでしまった。トイレで吐くなんていつぶりだろうか。しかもホワイトハウスの、隅々まで清掃されたトイレで。多大なる屈辱で薄っすら涙目になりながら手の甲で口の端を拭う。
そのまま手袋を力任せに引っ張り、勢いよく便器の中に投げつけ、レバーを足で思いきり踏みつけて水を流した。自分の吐いた物と水と手袋がぐちゃぐちゃに渦を巻いて流れていく。
それから洗面台で念入りに顔と手を洗った。洗いすぎて手のひらが真っ赤になったが、どうでもいい。
鏡に映る自分の顔は化粧が崩れ、髪もざんばらになっていて見苦しいものだった。あのブスに取り乱したせいで私までブスになったようだ。
イラつきながら化粧ポーチを開ける。

大体、何故大統領はあんな奴を迎え入れたのか。スタンド使いと言っていたが、わざわざあんな得体の知れない生き物を選び抜いた意味が分からない。
大統領への疑問は今回に限ったことではない。現に、自分と同じく遺体争奪を任されている奴等も皆まともな人間といえない。身元も素性も明らかにしない国籍不明の外人だとか、単純に人間的に欠陥があるとしか思えない奴だとか、とにかく奇異な輩ばかりだ。
そんな中にあんな醜い畜生が入ってきて、私はひどく混乱させられた。
大統領のことを批難するつもりは無いが、合理性を重視するあまり些か人選を誤ったのではないか?

コンシーラーでカバーし、ファンデを叩きながら鏡の前で格闘する。男のくせに化粧なんて、と言う奴もいるが自分の美しさを保持する努力の何がおかしいのか。だから美に関心のない奴は嫌いだ。
あぁ早くこの崩れた顔を戻して、食事の席に早く戻らなければならない。
《あれ》がまだ同じテーブルに座っているだろうと想像しただけで嫌気がさした。



あの禍々しい面を見た時、生家にあった絵画を思い出した。
薄暗い灰色の屋敷の中でそれは一層黒々と渦巻き、古びた壁に張り付いて存在感を放っていた。珍しいもの好きな父か母がどこぞで購入したものだったと記憶している。
「絵画」自体は、たいしたことは無い品だった。本物ではない、安価で売られている複製画だ。そんな紛い物だというのに、その絵の放つおぞましさは恐らく本物と同等で。
フュースリの「夢魔」。
画面いっぱいに横たわる、若く美しい女。背景の紅いカーテンの裏からは興奮状態の黒馬が顔を出していて、満月のように白い眼を剥いている。
注目すべきは、眠る女の白い肢体の上に乗っている魔物だ。子供くらいの大きさで、角の生えたそれは厳めしい顔つきでこちらを怪しく睨めつけている。
悪夢の産物どもは今にも美女を責め、嬲ろうとしていた。しかし一番の被害者は閲覧者だ。その悪行を見守ることしかできない我々を完全に置いてきぼりにし、いかに己が無力であるか、嫌でも理解させる。
初めて見たその一瞬で、昔の私を総毛立たせるのには充分だった。

大統領が新しく飼い始めた《あれ》は「夢魔」と似ている。



こいつが部屋に来てから、腕が虫に食われたように痒い。さっき見たら赤い発疹が出ていた。
「ブラックモアさんから、今日は…その、博士のお仕事をお手伝いするようにと…命令されまして…あの、このまま帰ったらまた怒られてしまうので…」
やや吃音症の気があるらしい犬の喋りを背中で聞きながら報告書を書くペンを動かす。私が「今すぐ出て行け」と言って五分ほど経ったが、こいつはさっきから同じような言い訳を繰り返している。流石にしつこい。
ペンを置き、眼鏡を外して首だけ振り返る。
大統領に提供されたこの留所に来てまだ一ヶ月ほどしか経っていないが、部屋は研究の資料と雑多に散らかった物に占領されつつある。自分の他にも研究者の部屋を見てきたが、大概こんな有様だ。しかしそろそろ片付けなければ、と頭の片隅で考える。
醜い《それ》は積んでいる本の山や紙屑で溢れたゴミ箱と同化するように縮こまって立っていた。
居心地悪そうにしながらも今か今かと何かを期待しているように見える。まさに「待て」と命令されて焦らされている犬のようである。
あぁ、嫌だ嫌だ。ただ立っているだけなのに、《それ》が居るそこだけ、部屋の空気が濁っているような感じさえする。
僅かに腕に鳥肌が立つのが分かった。
「おいドブス」
名前は忘れた。だから私は《それ》を見たままそう呼んでいる。
「はい」
《それ》は自分が醜いことははっきり分かっているようで、嫌がる様子もなく愚直に返事をする。それよりもやっと応答されたのが嬉しいらしく、僅かに笑みさえ浮かべていた。
「私はお前に出て行けとさっき言ったんだが」
「は、はぁ…ですが、そうするとまた叱られてしまうと思うんです」
「お前が叱られようが打たれようが、私には何も関係ないだろう」
「あぁ…そ、そう…ですよね……でも…」
まだ食い下がるか。頑固な奴だな。
腕の発疹が痒いのもあいまって、苛立ちが増す。
初めて見た時のように吐き気を催すことは無くなったが、相変わらず《それ》を見ると私は何かしら体調を崩すのだ。

すると、私が腕を掻き毟っていることに気付いて《それ》は目を見張り悲鳴のような声をあげた。
「あぁ!駄目!痣にでもなったらどうするんですか!」
掴もうとしてきたので慌てて腕を引っ込めた。
「お前、気安く近寄るんじゃあないぞ」
唐突な無礼を叱責したが《それ》には聞こえていないようで、唇を小刻みに震わせ食い入るように私の腕を見つめている。
「か、掻いたらいけません。薬を塗って、包帯を巻いて、処置しないと」
切羽詰まったような早口。諦めずに手を伸ばしてきたので「いい加減にしろ」と叩き返した。しかし《それ》は叩かれた手を宙で縫いとめたまま、まだ私を、私の腕を見ている。
「どうして粗末にするの」
無機質な囁き声。それでも静かなこの部屋でははっきりと聞こえた。いつもの気弱なそいつとは思えないほど生意気な口の利き方だった。
しかしすぐに「駄目ですよ」と取り繕ったような敬語が飛び出す。
「いきなり、何を言い出すんだ貴様は」
「博士…貴方は素晴らしい容姿をお持ちです。頭からつま先まで、それはもう整っていて…」
「……からかってるのか」
呆気にとられている私を置き去りにして、《それ》は感に堪えないような顔して続ける。
「あぁ…だから、ご自分の身体を大切になさってください。美しいものは潔く尊く保たれるべきなんですから。貴方という薔薇が手折られることがあったらと思うと、私は一夜のうちに涙の大海へ身を投げることでしょう」
出来損ないの詩みたいなクサい台詞を恥ずかしげもなく並べる《それ》はさながら舞台役者のようで。逆上せたように赤らんだ顔は、うっとりと恍惚に満ちた表情を浮かべていた。
思わず「うわ」と声が出てしまう。
勝手に私を無視してべらべら喋り出す《それ》に憤りもあったが、それよりも好意を向けられているという状況にとてつもない嫌悪感を覚えた。
発疹が疼く。

「大統領からのお許しさえあれば、貴方を保管して大切にして差し上げたい…」
仮面の眼孔から黄色味を帯びた目玉が覗いた。同時にずるりと白い指が肘掛を這う。気付けば《それ》は目と鼻の先にまで近付いてきていて、私を見下げている。
「あぁ、博士…」
やばい、こいつはやばい。ふと、《それ》がつい最近までホワイトハウスの連続殺人鬼であったということと、スタンド能力が他者の身体を奪うことだということを思い出す。
「欲しいなぁ…」という呟きが確かに聞こえた瞬間、咄嗟に《それ》を突き飛ばした。
「畜生ごときにそんな権利があると思うか?アホ頭で醜いお前に?自惚れるのもいい加減にしろドブス」
思いつくだけの罵声を浴びせかけると《それ》は頬を平手打ちされたみたいに驚愕した様子で、すっかり萎縮した。顔は死人のように青ざめている。
「す、すみません。私…どうかしてました…」
うっすらと目に涙を浮かべて謝るそいつは、さっきまでのねっとりとした嫌な気配は感じらない。
どうやら難は逃れたらしい。安堵して冷や汗が流れる。
もしあのまま放っておいていたら手足の一本か、または首を取られていたかもしれない、と想像して肝を冷やした。なんてタチの悪い生き物だろう。
やはりこんな奴を未だにホワイトハウスで放し飼いにする大統領の判断だけは間違っている。近いうちに側近を通して抗議するべきか…。
「そんなに美しい物とやらが好きならこれでも持って行け」と適当に埃のかぶった本の山から鉱物図鑑を引っ張り出して《それ》に投げつけた。「もう二度とここへ来るな」と釘を刺す。
「申し訳ありません…えっと、本をありがとうございます…」
《それ》は怯えきった顔で一礼し、本を持って足早に出て行った。

扉が閉まり足音が遠ざかっていくのを確認して、どっと疲れが襲ってくる。椅子の背もたれにぐったりともたれ掛かって息を吐いた。
頭にははっきりと「夢魔」の絵が浮かんでいた。もう少しであの悲惨な画面の一部になるところだったのだ。
《あれ》は確かに私を引っ捕えて屠ろうとしていた。媚びへつらう被虐的な態度にすっかり油断して甘く見ていたが、あれは野心にまみれた悪人だ。
嫌悪を紛らわすために腕に思い切り爪を立てる。
私の死骸の上であの醜い畜生が狡猾な薄笑いを浮かべている想像をして身震いがした。
気を抜いたら喰われる、その前に殺す。まるで自然界の弱肉強食のようではないか。
「あぁ、痒い」
自分の腕に血が滲み始めているのにようやく気が付いた。

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