寒いみたいに震える体を抱きしめながら、私は目の前に立つ彼を見上げた。彼の片手には受話器が握られている。しかし電話をしているわけではない。受話器の電話線は力無く垂れているし、電話機のほうは床に落ちて岩みたいに転がっている。
「伴侶以外の人間とは、誰であろうと連絡を取ってはいけない」
私は彼の取り決めた沢山の誓約の1つを破ってしまった。しかも、助けを求めて電話を繋げようとしたのだ。それがどんなに罪深い裏切りの行為であるか、分かっていた上で私は彼の外出中にダイアルを回した。
これまでにも何度か誓約を破ったことがある。
とても食べる気がしなくて時間通りに食卓につかなかった時だとか、聖書の言葉をきちんと暗唱できなかった時とか。眠る間も与えられず、時間をかけてじっくりと叱られたがその時は「貴女に悪気は無いことはちゃんと分かっていますから。赦して差し上げます」と言ってくれて許して貰えた。
しかし今回は違う。私に明確な悪気があって、約束を破ったのだから。
今度という今度は殺されるかもしれない。
可愛がっていたペットの猫は彼を嫉妬させてシチューにされた。優しかったお隣のおばさんは軟禁状態にされた私を見てしまってどこか遠くの山に埋められた。
彼は虫も殺せないような顔をしているくせに本性はシリアルキラーと何ら変わらない。

思えば官邸での仕事ぶりもそうだった。奸計をめぐらすのに長けている上に、標的を定めたら素早く確実に屠る。それに大統領への絶対的忠誠心や、聖なる遺体奪還への執念深さもよく知っていた。
なら、予知できた筈だ。
彼のその並外れたパワーのベクトルがもし、自分へ向いたら…なんて。
危機感のなかった過去の自分を責めてもどうにもならないのに、そんな後悔ばかりが頭をぐるぐると巡る。

「ナマエは、私が嫌いになりましたか」
黒曜石みたいに凝固した目が私を見下ろしている。そこからは何の感情も読み取れなかった。いつもそうだ。この人は好きだ愛してるを言うわりに喜怒哀楽のすべてを私に見せてはくれない。
それがとても不気味だった。まだ怒りを露にして怒鳴り散らすような暴漢のほうがマシだと思わされるほど、無表情で私をじわりじわり責め苛む彼は恐ろしい。
「ごめんなさい…」
「謝るということは肯定と受け取って宜しいのでしょうか」
「そうじゃないの、別に嫌いになったとかじゃあ…」
「では何故…こんな馬鹿げた真似をなさるんでしょうか。私には分かりかねます」
パッと離した手から受話器が落ちて、どすんと意外と重い音をたてる。
そしてゆっくりと彼は私の前に屈んで目線を合わせてくる。伸びてきた手が私の首にかかった瞬間、ひっと思わず悲鳴が漏れる。
「あぁ…私の神経を逆撫でして、殺されたいんですか?」
皮膚に爪が食い込む。抵抗しようと彼の痩せた肩を押すがびくともしない。死の恐怖で気が狂いそうだ。
「違うの、死にたくない」
「死にたくないんですか」
「死にたくない」
「では私と生きたいんですか」
「生きたい、生きたいです、だからお願いします。殺さないでください」
がくがくと頭を縦に振り、彼に縋りつく。
洟を啜り、涙をぼたぼた流しながら懇願する自分はきっと傍から見たら惨めそのものに違いない。遂には彼の質問さえ頭によく入らないまま生きたい生きたいと気付けば泣き喚いていた。

彼はそんな私の姿を見て、やっと首から手を離してくれた。そして代わりにごしごしとやや乱暴に私の涙を拭いとる。ふふふと彼の密やかな笑いが聞こえた気がした。
「そんなに私と生きたいと言ってくださるなんて、貴女は本当にしょうがない方ですね」
「……ごめんなさい」
「赦して差し上げますよ。ですが、もう二度と電話には近付かないように。私だって冷たくなった貴女と食事はしたくありませんから」
ぎゅっとぬいぐるみを抱え上げられるように抱きしめられる。
「天におられる私たちの父よ…」
彼は恍惚とした様子で祈りの言葉を唱え始める。きっと誓約を破って罪を犯した私に対しての祈りだろう。レインコートは濡れていないのに彼の躰は冷えきっている。この人は血まで凍りついているじゃあないだろうかと考えて、ぞわりと嫌な鳥肌が立つ。
「私達の罪をお許しください。私達も人を許します。私達を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」
アーメン、と締めくくると彼は震える私の頬に軽く口付けした。それはあまりに清くて残酷な儀式に思える。
「ブラックモアありがとう」
泣き過ぎて声が枯れた私は、幸せを装ってそう告げるしかできなかった。



20160109





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