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「おい、」
「なんでしょう?」

近くにいたえつこを呼び止める。小娘は洗濯物が詰まったカゴを抱えながら足を止めて柔和な笑みで振り向いた。
毎日毎日飽きずによく働く女だ。よくもまぁ低賃金でこれだけできるな。
俺には理解ができん。

「これだ」

朝食として出された碗を突き出す。しかし問題なのは碗ではなく、味噌汁の中身のことである。
えつこは最初ぽかんと間抜けな顔をしていたが、やがて思い当たったようであっと声をあげた。

「味つけが変わったの、気づいて頂けましたか?」
「前より薄く…なったな」
「この前薄味がお好きだと仰っていたので…。角都さんだけ別に味噌を変えたものをご用意しました」

えつこの説明を聞きながらまた一口、味噌汁を啜る。前より俺好みの味になっていて美味かった。
あんな何気ない発言まで幾日経たずに反映させるとは…殊勝なことだ。

「よく覚えていたな」
「当然のことです。生活のご要望を叶えるのは家政婦としての務めですから」

私のできる範囲のことでしたら、なんでも申しつけてくださいね。
当たり前のようにそう言って、えつこはへらりと笑った。
家政婦の務め…か。そんなに言うなら馬車馬のようにこき使うのも良いかもしれん。給料の倍働かせれば儲けものだ。

味噌汁を箸でかき混ぜれば豆腐が容易く潰れた。






どうしたことでしょうか。ここ最近角都さんから用事を申しつけられることが頻繁になった気がします。
他の皆さんからも勿論色々と頼まれることがあるのですが、それを上回る頻度で角都さんがあれこれと頼んでくるのです。

「ネクタイピンはどこだ」
「靴磨きはどうした」
「まだ埃が残っている。やり直し」
「新聞とってこい」

でも、在宅していることがほとんどな人だから、私と顔を合わせることが多いのは当たり前かもしれませんね。もしかしてこれを機に、仲良くしてくれようとしているのかもしれないし……。
そう考えると私は悪い気はしないのです。





「お前それ角都にいびられてんじゃないのか?…うん?」
「い、いびり…?」

ある日、忙しく動きまわる私のことを見かねたデイダラさんがそう言いました。

「はたから見たらまるで姑と嫁みたいだぜ、うん」
「え、えぇー…?」
「最近角都に文句とか用事言いつけられてばっかじゃねぇか。ほどほどにしとかないとぶっ倒れるぜ?…うん」

心配してくれているのでしょうか。けれど家事は私の持っている唯一の特技で、アイデンティティーのようなもの。手を抜くだなんてできません。

「心配してくださるなんて…デイダラさんお優しいんですね…!」
「し、心配なんかしてねぇよ!」
「でも私は大丈夫です。簡単にへこたれたりしませんから」

では、と私は角都さんから頼まれていたコーヒーとお菓子をお盆に乗せて部屋を出ました。デイダラさんはなんだか腑に落ちないといったお顔でしたが。





角都さんのお部屋は202号室。二階です。
コーヒーを零さないように階段を上がって、木製の扉をノックしました。「誰だ」と扉の中から低い声。

「えつこです。コーヒーとお菓子をお持ちしました」
「……入れ」

許可が出たのでドアを開けます。鍵はかけといた方が良いのになぁと思いました。
部屋に入ると角都さんは机に向かって書き物をしているらしく、私に背を向けたままです。そういえば角都さんのお部屋に入るのは初めてかもしれません。
部屋は整頓された本棚に囲まれていて、それ以外はあまり生活感がない感じです。壁にかけられていた額縁に目をやると、そこには新聞の切り抜きが張り付けられていました。

『元銀行支店長である作家、角都氏が某評論家の政治論を真っ向から批評』
『辛口評論家、文芸誌にて直木賞受賞作品を駄作と批評』
『批評家と名高い角都氏の金融工学本、30万部を突破』

つらつらと書かれているのは角都さんの様々な功績でした。角都さん元銀行員さんであり、作家さんであり、評論家であり…なんてオールマイティな人なのでしょうか。

「か、角都さんって有名人だったのですね!私知りませんでした!」
「……三、四十年も前の昔のことだ」
「それは言い過ぎですよ。だったら角都さん幾つだって話になっちゃいますよ?」
「………」

何故か溜め息を吐かれてしまいました。私、何かおかしな事を言ってしまったのでしょうか?

「いいから、コーヒーを置いていけ」
「あ、そうでしたね!冷めないうちにどうぞ」

私は角都さんの文机にコーヒーカップとお菓子をそっと置いておきました。
しかし角都さんはすぐ手をつけるかと思えば、じっとカップを睨みつけたままです。

「どうしました…?」
「お前は不満一つ言わないんだな」

一瞬なんのことを言われたのか分からず、ぽかんとしてしまいました。コーヒーのことではありません、私のことについて角都さんは指摘したのです。

「高くもない給料で雇われているから倍は働かせようとここ数日こき使ったんだが…弱音の一つも吐かないとは…」
「……え?」
「そこまで家政婦に執着できる理由は何だ?」
「………」

いきなり問われて、私は暫く閉口していました。そして一呼吸置いてから、角都さんを真っ直ぐ見ました。

「私の得意なことは家事くらいしかないのです」
「………」
「仕事が多くても楽ではなくても、たった一つの特技を生かして他の方のお役に立てることが自信にもなって嬉しいんです」

私が答え終われば、角都さんはしばらく黙っていたままでした。そして「そうか」と呟き、僅かに目を細めていました。

「働くことを嬉々と捉えられるとはお前はめでたい奴だな」
「…?ありがとうございます?」
「褒めてない。……フン、そんなに労働がしたいなら今後もこき使ってやるからな小娘」
「……お、お役に立てるならいつでも喜んで」

いまいち角都さんの意図が読み取れずにとりあえずそう答えれば、大きな溜息で返されてしまいました。角都さんは多才で博識だけれど不思議な方だなぁと思いました。


「それと次はコーヒーより緑茶を持ってこい。菓子も洋菓子より和菓子にしろ」
「あ、はい。次からは必ず」

この日から毎日、角都さんに三時のお茶を持っていくのが新たな仕事として加わりました。



20141014

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