おかしな話だと、笑ってやりたかった。なんでそんな皮肉な出来事が、この世で起こりうるのか。起こりうるはずがないだろう。起こりうるにしても、何億分の、いや、何十億分の一とか、もしくは天文学的な数値だとばかり思っていた。確率なんてあくまでも確率であり、事が起こってしまえばそれは何の意味も持たなくなることくらい、医者である俺はよく理解していた。だがまさか自分の身に、あいつの身に、あいつと俺の子の身に、あんな災いが降り注ぐとは想像できなかった。


「……」


幼なじみの雛森が俺に向かって何かを発した。何かを告げられた、という意識はあった。しかしスムーズに頭へ入ってこない。耳の焦点がずれているような、緩んでいるような、そんな感覚が麻痺してしまった感じだ。どっちにしろあいつの言葉は明確に伝わってこない。俺の名前を呼んでいる様な気もするが、もしかしたら総て俺の気のせいで、実際雛森は何も言わずにただそこにいるだけなのかもしれない。むしろそうであっで欲しい。一年前から今日までの出来事がすべて悪い夢ならば、どんなに救われたのだろう。俺が代わりに死んで、咲夏とお腹にいた赤ん坊が生きていれば、どんなに良かっただろう。無辜なあいつらが、死ぬ理由なんてなかった。命の限りがはっきりと解っていた俺ならば、予定よりも早くそれが訪れただけのこと、と受け入れたかもしれないのに。

俺の体が悪性腫瘍に侵されている事は、俺だけでなく咲夏も承知の事項だった。付き合う前に、結婚する前に、子供が出来る前に、何度も確認してきた。俺は絶対にお前より先に、あの世へ逝く。諦めているわけじゃない。最善の手は尽くす。俺だってお前と幸せなときを一時でも永く過ごしたい。それでも不可能なことはこの世に必ず存在していて、それが俺の場合咲夏と共に一緒に老いていくことだった。

(日番谷の子供、欲しい)

俺が死んだあと、好きな奴が見つかれば、俺を忘れてくれて構わない。幸せでいてくれれば俺に悔いはない。何度そう告げても、咲夏は結婚すると言い張った。自分の幸せを第一に考えろ。何度そう諭しても、咲夏は了承しなかった。


『あたしは絶対に日番谷を忘れない。日番谷が居たこと、皆忘れちゃったって私だけは覚えてるから』


静かに死を迎えたいと思っていた。静寂に包まれて、出来れば誰もいない一人きりのひっそりとした空間で。巻き込んではならないと、俺の勝手な問題に引きずり込んではいけないと、ずっと言い聞かせてきた。死ぬのは怖い。死のあとの静寂さに親しみを抱けるようになっても、結局その過程にあるあの動騒を想像すると、気が狂いそうになる。縋りたくなる。医者であったからこそ、おそらく一番に身近で他人の死を感じてきたからこそ……《生》から《死》へと変わる瞬間に伴われる苦痛をよく理解していた。安らかな死など、ただの幻想に過ぎないのだ。


「咲夏ちゃんとお腹の子の命もあったから、その分相手の罪は大きいからね」
『どうだっていい、そんなこと……金なんて今更必要ないからな』
「明日なの。明日であの人たちとの交渉も終わるから。日番谷くんも、来る?」
『咲夏の命の値段が決められる会議になんか、誰が行くかよ』
「そう、だよね……ごめんね、ごめん、ね」


事故のことは全て弁護士の雛森に任せた。被害者遺族に対する賠償金の提示が専らの仕事だった。あの事故で生き残ったものは誰一人としていなかった。初めて集会を開いたときに、号泣するものがいた。遺されたものは、時がたって、自然と傷が癒えるのを待つしか術はない。その傷は本当になんのしこりも瘡蓋も残さず、治癒されるはずはないことくらい誰しも解っていたのだが……生憎俺に残された時間を考えると、その可能性にすがることも出来ない。遺族――遺された家族。本来ならば咲夏が遺される側で、俺が先に向こうへ逝っていたはずだった。俺よりも先にあいつが死ぬなんて、どういうことだよ?
知り合いとのことで、その上、雛森自身も咲夏と仲が良かったから、辛かったはずだ。泣き腫らした瞳で、幾度も俺を訪ねては「あたし頑張るから」と口癖のように呟いた。くだらない理由で、命を剥奪されたあいつらのことを想うと、俺も涙が出た。相手が生きているのならば殺してやろうかと本気で計画を練ったりしただろう。どうせ残り少ない命なのだから。
しかし――咲夏たちの命を奪ったやつは、そのまま事故で死んだ。即死だったらしい。簡単に、楽に、逝きやがって。あいつは最後まで頑張った。お腹の子だけでも助かるようにと泣いて叫んだ。悶えるような痛みにも耐えた。それなのに、間に合わなかった。どれだけ苦しかったのか、思い知らせてやりたい。そうだ、あいつは知るべきだ。

(赤ちゃん……生き、てるかな?)

賠償金なんて要らない。俺が欲しいのは、健康な体で幸せに笑っている咲夏だ。金で買えるような価値じゃない。もっと尊くて大切な、何にも替える事の出来ないかけがえのない存在なんだ。


「死んじゃだめだよっ」


呪文のように雛森が俺に言った。視線を外して、服用している薬を無造作に口に放り込んだ。ごくごくと水で流したあと、何かに取り憑かれたようにあいつの名前を呼んだ。咲夏、咲夏、咲夏、咲夏!逢いたい。逢いたいんだ。心に触れて、体を抱きしめて、息つく暇がないほど激しいキスして、それで……。
叶わぬ願いほど、人は強く希求してしまうものだ。人は死んだら生き返らない。年端のいかぬ子供でさえ知っている常識だ。しかし俺は今、どうにかそれを覆せはしないかと懸命に模索しようとしている。馬鹿だ。あいつが生きていれば確実に、バッカじゃないの?と罵られるに相違いない。

(馬鹿な真似だけはやめてよ)






限りの旅を愛でようか
死に恐れを抱く事勿れ







2010/11/04







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