桜の木々についた蕾がふっくらと膨らみ、花開く瞬間を今か今かと待ちわびている。その光景を見上げる度に、俺は思い出す。
俺に背を向け巣立って行った、あいつらの背中を。
一ヶ月前、星月学園で卒業式が行われた。俺がこの学園に赴任してから、何度目かの卒業式。そしてそれは、俺が初めて受け持った教え子たちの卒業式でもあった。
三年間、教師としてあいつらの成長をずっと見守ってきた。
そんな奴らの卒業式だったんだ。
泣かないわけがないだろう?
案の定、卒業式が行われている間は始終視界が涙でぼやけていた。
そして卒業式が終わり、最後の生徒がこの学園に背を向けて巣立って行った後も、実はしばらくの間涙が止まらなかった。
それから琥太郎先生たちに付き合ってもらって、屋上庭園で星を見上げながら酒盛りをしたんだっけ?次の日起きてみたら、久しぶりの二日酔いで一日中頭痛が治まらなかったけどな…。
そうやって桜の木々を見つめながら思い出を振り返っていれば、サクサクと誰かが地面を歩く音が聞こえた。その音がする方に視線を向けると、そこには名前先生がいた。
「こんにちは、直獅先生」
「おう。先生も、今日は仕事か?」
「新学期に向けて、いろいろとね」
サラリ、と風に揺れた髪を耳にかけながら、名前先生はそう言った。
彼女は、俺と同じように教職員としてこの学園に雇われたわけではなく、事務員として雇われた女性だ。だからこそ、彼女のことを先生と呼ぶのはおかしいかもしれない。だが、俺はこの方がしっくりくると思ってそう呼んでいた。
そのまま、俺と名前先生は二人並んで桜並木のある道を歩き始める。
こうして誰もいないこの道を歩けるのは、春休みなのにも関わらずこの学園にいる職員の特権だな。
春休みである今、ほとんどの生徒たちは実家に帰省している。それに、卒業生たちはもう退寮を済ませてあるから、この学園にはいない。だからこそ、この学園に今いる人間は限られていた。
まぁ、職員である俺や名前先生は新学期の準備で実家に帰省どころじゃないんだがな。
「そういえば、あの後大丈夫だった?」
「あの後?」
「卒業式の次の日、二日酔いで大変だったって琥太郎が言ってたわよ」
「あー…その節は、いろいろお世話になりました…」
語尾に近づくにつれ、だんだん小さくなった俺の声。そんな俺を見て、名前先生は手の平で口を隠しながらクスクスと笑った。
「あの後、二人で俺を職員寮まで運んでくれたんだろ?」
「ほとんどは琥太郎がね。私は付き添っただけ」
「しばらくは琥太郎先生に頭が上がらないな…」
卒業式が終わってからの酒盛りの後、俺は受け持った生徒たちが巣立ってしまった寂しさを紛らわせるかのように、浴びるように酒を飲んだ。
そのせいで、酒盛りが終わるころには完全に出来上がった状態になっていて、一人で歩くこともできなかった。だから、琥太郎先生とそして一緒に酒盛りをしていた名前先生が俺を職員寮まで運んでくれたんだ。
俺はそのときのことをあまり覚えていないけど、後から聞いた話では絡み酒のせいでかなり鬱陶しかったらしい…。
「でも、しょうがないよ」
「しょうがない?」
「だって、3年間受け持った生徒たちの卒業式だったんだもの。寂しくて当たり前でしょ?」
そう言って、名前先生は儚げな笑顔で笑った。きっと、俺の寂しいという気持ちを察してくれたのだろう。
それだからだろうか。今になって、また寂しさがこみ上げてきたのは。
この春休みの間、卒業した生徒たちが何度か遊びに来てくれたことがあった。それに、ゴールデンウィークになれば会いに来ると約束してくれた生徒たちもいる。だから、あいつらともう二度と会えないというわけではない。
それでも、俺のこれからの日々にあいつらはいない。
廊下を歩いてると、後ろから「おはよう」と声をかけてくれるあいつらが、教室のドアを開けたときに黒板消しが落ちるトラップを仕掛けてきたあいつらが、遅くまで残って勉強を教えたあいつらが、もう、いない。
「…星月学園も、静かになったなぁ」
「…そうね。直獅先生が受け持っていたクラスは特に賑やかだったし」
「あいつら毎日五月蝿かったな〜」
本当、五月蝿い奴らだったよ。だけど、そのおかげで俺の日々が彩られていったんだ。
あいつらのキラキラとした青春の輝きが、俺のことまで輝かせてくれた。だから、俺は自分の高校時代に過ごせなかった青春を、あいつらと過ごすことができた。
楽しかったなぁ…。毎日、毎日、同じ日なんて一度もなかった。
「みんな毎日、良い顔してたよ」
「え…?」
「きっと毎日、学校に来るのが楽しかったんだね…。そしてそれは、直獅先生のおかげだったのかも」
ニッ、と口端を上げて笑った名前先生は、まるでしてやったりと言わんがばかりの顔だった。
まったく、それを言えば俺が照れることを分かっていたって顔だな…。その予想通り、俺の顔は耳まで赤く染まっていた。だって、こんなこと言われて照れない方がおかしいだろ?こんな、真正面から褒められて…。
だけど、そう言ってもらえて良かった。俺の生徒たちは、俺から見てもみんな毎日良い顔をしていた。でも、第三者から見ても良い顔をしていたってことはその事実の信憑性はさらに増す。
みんなが、毎日楽しく過ごしていたっていう事実が。
「俺が教師を続けていく限り、きっと何度も経験しなきゃいけないことなんだろうな」
「そうね…。卒業式は、毎年あるもの。その度に、私たちはその背中を見送らなくちゃいけない」
「出会いがあれば、別れもあるってか…」
これから何度も、俺は巣立ってゆく生徒たちの背中を見送る。そして彼らは、その先で大人へなっていく。
きっと、俺が知らないところで辛いことや苦しいことと立ち向かわなければならない日が来るのだろう。そのとき、俺は助けてやることもそれ以外のこともできない。何もできない無力な奴だ。
もちろん、あいつらなら乗り越えていけると信じている。
俺の生徒だったんだ。できるはずだ。
だけど、苦しんで苦しんでどうしようもなくなってしまったら、どうかこの学園で過ごした日々を思い出してほしい。毎日を笑顔で過ごしていた、この日々を。
この学園で過ごした日々の中にも、辛いことや苦しいことはあっただろう。それでも、それは青春の1ページとして心の中に残る。だからこそ、青春時代というものは誰にとっても宝物のなんだ。
青春、という響きだけで辛かったことも苦しかったことも、思い返してみれば全て自分の成長の糧となる。
大人になってしまえば、それはもうできなくなるー…。
青春という言葉で守られていた日々が、終わってしまうから。
「もしかしたら、俺は矛盾しているのかもな」
「どうしたの?急に」
「あいつらが成長していくのは嬉しいのに、大人にはなってほしくないと思うんだ。変だろ?」
そう言って、俺は苦笑いを浮かべながら名前先生の方を見た。そうすれば彼女は、いつものように柔らかい笑みで口を開いた。
「直獅先生は、生徒たちのことが本当に好きなのね」
「えっ!?」
「彼らの幸せを強く願うからこそ、そう思うのよ。好きな人には、幸せになってもらいたいでしょ?」
「…そう、だな。俺、あいつらのことすっげー好きだ!」
好きなんだ。あいつらのことが。だからこそ、幸せな人生を歩んでもらいたい。だけど俺は、それをここで願うことしかできない。
それでも、何もしないよりはきっとマシだろう。幸せになってほしいと願ってくれる誰かがいる、きっとその事実は励みになるから。だから、俺がここにいることを忘れないでほしい。
俺と、そして名前先生。琥太郎先生だって、この学園でお前たちの幸せを願っているんだ。
もちろん、卒業生たちだけじゃない。在校生や、これから先に星月学園に入学してくる生徒たちの幸せも願っている。だからどうか、孤独を感じたときは俺たちのことを思い出してほしい。
「この学園で過ごした生徒たち全てに、幸あれ!って感じだな」
「ふふっ。そうね」
さっきまであった寂しさはいつの間にか溶けてなくなり、新しい感情が俺の中で芽生え始めていた。
それはきっと、いま俺の隣で歩いている名前先生のおかげだろう。彼女が俺の話を聞いてくれたから、俺は自分の気持ちを整理できた。そして、前を向いて進んでいけるようになった。
だから、彼女にはこの言葉を伝えたい。
「ありがとうな、名前先生!」
「お礼を言われることなんて、何もしていないわ」
「それでも言いたかったんだ」
「そう…。それじゃあ、どういたしまして」
そう言って笑った彼女の笑顔は、これから花開く桜のように優しく、そして温かい笑顔だった。
2015/07/14