静かになった道場を見回していると、心の中にぽっかりと穴があいていることに気づいた。
この穴は、一体何だろう?なんて、問いたださなくてもそれくらい分かる。このぽっかりあいた穴は、『寂しさ』だ。先輩たちが引退してからあいたこの穴は、彼らを恋しがる僕が生み出した『寂しさ』なのだろう。
そして、僕は気づいた。
僕が弓道以外にも執着していたもの。
それは、弓道部の仲間たちだ。
まさか、物事に執着することを恐れていた僕が、気づかないうちに執着していたなんて…。だけどもう、気づいてしまった。
だから、気づかなかったころには戻れない。
先輩たちが引退してから数日、僕は部活動のない日に弓道部の道場に来ていた。そして弓道着に着替え、弓と矢を持って的の前に立つ。そして狙いをゆっくりと見据え、弓を引く。
パアッン、と放った弓は、的の中心から少し外れた。
「…僕らしくない」
ボソッと呟いた独り言は、静寂の道場に響くだけで誰も答えてはくれなかった。
自主練習のために来たのはいいけど、もう帰ろうか。そう思い、荷物をまとめ始めたときだった。ガララッと道場の戸が開いたのだ。
「あれ?木ノ瀬くん」
「名字さん…?どうしたんですか?」
「木ノ瀬くんこそ…あ、もしかして自主練?」
「はい」
僕がそう言えば名字さんは、「そっか」と言いながら道場に入ってきた。
「私は陽日先生に頼まれて、弓道部の道場に不備がないか確認しに来たの」
「そうだったんですか」
名字さんの存在は、陽日先生と仲が良いこともあって、よく弓道部の手伝いに来てくれるから知っていた。
のちに、彼女が購買部でレジ打ちをしていることも知ったけど、宇宙食を食べることが課せられている宇宙科の僕にとっては、購買部は無縁の場所だった。それでも、彼女がいると知ってから時々だけど顔を出すことはあった。
その度に、彼女は笑顔で僕を迎えてくれた。
「何か不備なところはある?」
「そうですね…。そういえば、小熊が古くなった弓や矢を新調したいって言っていました」
「弓と矢の新調ね。了解」
僕の意見を聞いて名字さんは、持っていたバインダーに何やらメモを書きとめた。
「それにしても、自主練なんて偉いね。木ノ瀬くん」
「別に、普通ですよ」
「それを普通と思えるんだから、やっぱり偉いわ」
笑みを零しながら、僕の頭を撫でる名字さん。それがなんだか子ども扱いされているみたいで、照れくさかった。
彼女は、いつもそうだ。僕が何かするたびに、「木ノ瀬くんは偉いね」と言って僕の頭を撫でる。前にどうして僕の頭を撫でるのかと聞いたら彼女は、僕が彼女の弟と身長が似ているからと言って笑った。
彼女から褒められるのは、嬉しいし好きだ。
だけど、昔からなんでも器用にこなしてしまう僕にとって、褒められるという行為は複雑な感情を揺さぶるものだった。
「…木ノ瀬くんは、いいね」
「え…?」
「木ノ瀬くんの未来は、キラキラと光っているんだもの」
眩しそうに目を細めて、僕を見る名字さん。彼女は僕のことを褒めてくれたつもりだろうけど、僕はあまり嬉しくなかった。
「そう、ですかね…?」
「木ノ瀬くん?」
「僕は、未来が見えません。見ようと思っても、真っ暗で何も見えないんです」
「…将来が、不安なの?」
名字さんの問いに、僕は素直に頷いてみせた。そうすれば、彼女は励ますかのように僕の手を取って軽くゆすってくれる。
弓道部に入ってから、僕は僕の持つ可能性をたった一つのことに捧げていいのかと不安になって、物事に執着することをやめた。だけど、それは違うと仲間たちに教えられた。
僕は、可能性の分だけ何事にも執着していいんだと。
それが、僕にはできるから。
そのおかげで迷いは吹っ切れたけど、それと同時に生まれた悩み。それは、何事もできる可能性を持つ僕はどんな未来に進めばいいのかという悩み。
せっかく宇宙科の生徒になったのだから、宇宙飛行士になりたい。だけど、このまま弓道を続けていけば新たな可能性に出会えるかもしれない。もしかしたら、まったく違う道に進むこともできるかもしれない。
そうやってどんどん可能性が生まれるたびに、僕の未来はどんどん暗くなっていった。そして僕は、どこにも進めなくなってしまった。
「…大丈夫よ、木ノ瀬くんなら」
「貴女なら、そう言ってくれると思いました…」
「私は、木ノ瀬くんの可能性を信じている。…でも、木ノ瀬くんが欲しい言葉はこれじゃないのね」
「………。」
別に、名字さんを困らせたかったわけじゃない。それでも、結果として彼女を困らせる形になってしまった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、名字さんだった。
「きっと、沢山の可能性を持っている木ノ瀬くんはこれから先、自分の力で未来を掴めると思うわ」
「………。」
「今は真っ暗で何も見えなくても、木ノ瀬くんならそうできると信じているから」
「…そうですね」
「…顔を上げて?」
名字さんにそう言われ、僕は俯いていた顔を上げた。そうすれば、ふわりと僕の顔を包み込んだ彼女の手の平。
温かい手の平が、ゆっくりと僕の頬を温めていく。それが、僕の不安な心を包み込んでくれているように感じて安心感が生まれた。
「木ノ瀬くん、私は貴方を信じているわ。そして、ずっと貴方のことを見守っている」
「ずっと、ですか…?」
「ずっと、よ。私はずっとここにいるから。この学園と共に、変わらずここで見守り続ける」
変わらずに見守り続ける、か…。それはきっと、簡単なようでとても難しい。なぜなら、変わらないものなどこの世にはないのだから。
だけど、未来へと突き進んでいく途中で後ろを振り返ったときに、名字さんがいてくれたとしたらこれ以上に心強いものはないだろう。
不安になって、途中で立ち止まってもいい。
悲しみのせいで、前に進めなくなってもいい。
振り返れば、僕の執着するものが前へと背中を押してくれるから。
それは弓道であり、仲間たちであり…そして、名字さんだ。彼女は、ずっと僕のことを見守ってくれていると言った。きっとそれは、彼女にずっと期待され続けるということなのだろう。
だったら、格好悪い姿は見せられない。いつか未来を手に掴んだときに、彼女に褒められる僕でいなければならないから。
「…頑張ってみようと思います」
「…本当?」
「名字さんの言うことが本当なら、きっと僕の未来はキラキラと輝いているはずですから」
僕のその言葉を聞いて、名字さんは今までに見たことのないくらいの笑顔を見せてくれた。
そして、まるで眠りにつく前の子どもに物語を聞かせるような優しい口調で、話し出した。
「木ノ瀬くんの未来も、そしてこの学園の未来もきっと輝いている。私は、それを見守るのは好きなの」
「名字さんの未来も、きっと輝いていますよ」
「そうかしら?」
「ええ。絶対に」
「木ノ瀬くんが言うのなら、きっとそうなのね」
きっと名字さんは、この学園の、そしてこの学園にいる生徒たちの未来を誰よりも信じている。その未来が、輝いたものであると。
だったら僕は、応えなければならない。
その信頼を裏切ってはいけない。
僕を信じてくれる人がいる限り、きっと僕は前に進み続けられるから。
2015/07/18