毎朝あなたに逢う度に温かいものがこの胸を満たします。一年前の肌寒い秋の日のことでした。電車に溢れる人、声、振動。すべてがどこか公害じみていると思えた自分が嘔吐感を抑えているとあなたの手が背中に添えられて「大丈夫すか?」と少し乱暴ながらも心配そうな言葉を与えられました。


なんて顔の整った美しい青年なのでしょうか。年端はわたしと大して変わらないようでした。人混みのなかで凛と存在感をもつ声もそうですが、彼自身にもまわりとはまったく違う輝き(存在感)があったのです。


すぐに彼を好きになりました。「大丈夫です、ありがとうございます」「そりゃよかった」彼ははにかむように太陽のように向日葵のように笑います。背中の手が離れてもまだ心臓はうるさいままでした。このまま鳴り続けてしまったらどうなってしまいましょう。両の手で胸を抑えていると貴方はいつのまにかいなくなってしまいました。


それから、です。毎朝毎朝電車で彼を探しました。決まって三つ目の車両に乗り、彼は毎朝音楽を聴いていました。たまに隣に立ってみたりもしました。側にいれなくてもよかったのです。ただ好きという感情が持てたことが嬉しかったから。朝の三十分間、彼と同じ電車に乗っていられるだけでまるで公害のようなわたしの世界が明るく美しく見えたのです。


その日もいつもと同じように三両目の電車に乗り込みました。すると目に入った貴方の隣には柔らかい笑顔の似合う女性がいて何やら楽しそうに会話をしています。直ぐにあなたの恋人なのだとわかりました。あなたにぴったりな愛らしい、賢明そうで優しい雰囲気の女性です。


世界はやはり醜く歪んでいるのです。父は職を失いそのストレスから酒を呑んでは母とわたしに当たり散らし、母はそんな父から逃げるためわたしを置いていきわたしは父から暴力を受けながらも、彼を養うのです。


学もなければ才能もなく価値もない自分には売春以外なにもできませんでした。しかしセックスの最中だけ人々はわたしの髪を撫でわたしの声を慈しみ指が綺麗だと言いわたしの解けやすくなったアヌスを愛します。わたしははじめて生を実感する。しかし彼だけは、彼だけはわたしを脱がさず痛めず泣かさず、ただ「生」をその指と掌と声から教えてくれた。


しかしです、悲しいことにもうあなたによって魅せられた世界は色褪せてしまった。うつむいていると目からは水が零れ落ちていきます。ぼたぼた、と床を濡らしていくそれを見つめていると、ふと背中に手を感じました。振り向き、自身の赤い瞳に映るは、また、あの彼でした。「大丈夫すか?」あの日と同じ言葉。もう、大丈夫ですとは返せなかったけれどしかしわたしは十二分にも満足であり彼に二度も触れられ二度も彼の視界に、世界に捉えてもらえたのでなんの未練もありませんでした。父は保険金で生きていけるでしょう。母も葬式くらいは来てくれるでしょう。


「ありがとう」名前も知らない、優しいあなた。あなたの優しい掌の温度を最後に感じ、止まった電車から降りて向こう側のホームへ向かいます。やってきた電車目掛けて飛ぶ。衝撃。甲高い悲鳴。やっと楽になれるのだと思うと心底嬉しかった。さようなら。


どろり。胃に感じた不快感はきっと昨晩処理が不足していたからでしょう。死ぬときまで綺麗に死ねないだなんて、まあなんとわたしらしい。



リメイクしました(11/7)
わかりづらすぎる正臣←杏里