手をつないだ
「ただいま」
挨拶などほぼ無いに等しい家だが、たまにこちらから掛けると必ず返ってくる声がなかった。あれ、おかしいな。寝てるのだろうか。
時間を確認する。
午後18時23分。昼寝にしてはおかしな時間帯であるし、普通なら夕飯を作っているはずなんだけど。キッチンから料理をしている音はしない。
俺が家を出たのは昼を少し過ぎた頃だったから、仕事を片して、まだ買い物にでも行ってるのだろうか。
「波江、いないのー?」
リビングの扉を開ける。
テーブルの上に置いてあるいつもより多めの、食料品や日用品の入ったビニール袋。
その向こう。ソファ上に、小さく蹲りながら座っている彼女を見つけた。
「なんだ、いるじゃない」
どうして返事してくれなかったの、と言いかけたところで気がついた。
綺麗な頬に伝う線。
ぽたぽたと零れる透明な雫。
「なみえ・・・?」
そこでようやく自分が帰ってきたことがわかったのだろう。彼女がこちらを向いた。夢でもみているかのように、瞳はとても濁っていた。
水分の多い瞳から、これでもかと言うほど涙が溢れる。
いつもなら顔を覗き込むだけで毒針のような言葉が飛んでくるのに、今日に限ってそれすらない。
「波江」
「っ、あの、いざ」
「なんで、泣いてるの?」
「わ、たし・・・わた、は」
ぼた。ぼたり。
そんなに涙を流してしまったら、身体中の水分はなくなってしまわないだろうか。身体中の塩分がなくなってしまうんじゃないか。
わたし、わたしは、と繰り返しながら、相変わらず涙は止まることを知らない。
膝を抱え座る彼女はいつもより遥かに弱々しくみえた。華奢な身体はよりいっそう小さくなり、もう折れてしまいそうだ。
隣に座ると、一瞬、彼女の身体が強張る。
「波江」
手を伸ばして彼女の髪に触れた。石鹸の匂いがふわりと漂って、長い、綺麗な黒髪を手で梳いた。さらりと、髪は指の間を通り抜けていく。
何度呼びかけても返事なんて無かった。ただ嗚咽まじりの声が静かな部屋に響くだけ。彼女のスカートには幾つもの涙のあとがある。
時計をみると、もう19時を廻りそうだった。埒があかない。
ソファから降りて彼女と向き合うように床に膝をついた。涙を拭こうとして、ハンカチが手元にないのに気づく。指で掬うか、袖で拭うか、どうするべきか。
「あのね」
そんなくだらないことを考えてるうちに、彼女が口を開く。
「さっき、せいじが、いたのよ」
濁った瞳のまま、彼女は淡々と言葉を吐き出す。
さっきとは買い物に行った時だろうか。池袋まで行ったのだろうか。そこで、弟に遭遇したのだろうか。きっと嬉しかったに違いない。ここ最近は仕事が溜まって、あまり休暇をとらせてやれなかったから。
「せいじと、あったの、ひさしぶりに、わたし、うれしくて」
案の定だった。
なのに、なんで泣いてるのだろう。嬉しかったのならそれでいいはずなのに。
「でも」
ぼたり。
溢れて零れた涙はまた彼女のスカートに滲んで、消えた。
指で掬うと、生ぬるい液体が指に触れる。
「せいじは、あの女といっしょにいたのよ、わらってたの、しあわせそうだったの、わたしにはみせないえがおだったの、わたしがみたことのないえがおだったの、あの女といると、わらうのよ、あの子は、わたしじゃ、だめなのに、あの子に、わたし、わたしは、わたしというそんざいは、」
いらないの。
そう言って、へにゃりと笑った彼女は、もう彼女ではなかった。
「波江」
「そうでしょう?そうよね、そうなのよ」
「波江」
「だってわらわないんだもの、わたしじゃあんなふうにしあわせじゃないんだもの」
「波江・・・」
涙は、もう止まっていた。
ぐぐっと音をたてて彼女は自分の腕に爪を食い込ませる。じわりと赤黒い染みが服に浮き上がった。慌てて彼女の手を払う。
「わたしはいらないの」
気の抜けた顔で笑う彼女はとても、とても痛々しかった。掬った涙はしょっぱくて、そして哀しい味がした。見てなんていられなかった。
弱い俺はこれ以上彼女の哀しそうな笑顔を見るのが嫌で、逃げるように、彼女の顔がみえないように隣に座りなおした。
こんなにも痛いのね、と呟かれた声は静かな部屋に響いて、そして消えた。
「波江」
もう壊れてしまったのか、あるいはもうすぐ壊れるのか、微笑んだままの彼女の名前を呼んで、手を握った。
冷たい手だった。
冷たい手を握りながら思った。
「ひとりにして」と微笑うきみの、震える手を離すものかと。