ああ、なんてことでしょう


「ねえねえ波江」


なによ煩いわねと返したら、いや〜ん!波江さんってばこっわあい☆とか何処かのチャットである女口調で話はじめた。真面目に鳥肌が立つのでやめてほしい。そんな上司をスルーしつつ持っていた書類を整理する。


情報屋というのはそこそこに儲かるらしいが、こうも仕事量が多いとは思わなかった。というか上司が真面目に働けばこんなに私が働くことはないのだが。


「私に話しかける暇があるなら仕事のひとつでも片付けたらどう?」
「前は一人だったからまあ多少切羽詰まったりしたけど俺は要領いいし、今は波江がいるし、そう焦る仕事もないし、ちょっとくらいいいじゃない」
「でも私には仕事あるの。どこかの上司が真面目に仕事をしないから。喋るなら一人で喋って、話しかけてこないでくれる?」
「波江と話したいんだけどなー」


うにょーん、なんて変な効果音を口から発しながら伸びをする彼は、随分とご機嫌らしい。なにか嬉しいことでもあったのだろうか。また怒り嘆き泣き狂う人間をみて楽しかったのだろうか。誰かを自分の手で陥れることができたのだろうか。もしかしてあの犬猿の仲である平和島静雄に致命傷でも負わせることができたのだろうか。


そこではっと気づく。まただ。
また私はこうやって、この、目の前の呑気に鼻唄を唄って椅子をくるくる回している上司のことを考えている、と。


「波江?どうした?」


いつの間にこんなに近くにきていたんだろう。気づいたときには、ひらひらと目の前で手を振る上司と自分の距離はあと数センチで鼻がつきそうな近さだった。


「・・・べつ、に」
「ぼーっとしてるなんて珍しいね、考え事?」
「関係ないじゃない」


くるりと踵を返し再び書類整理をしようと思ったら腕を強くつかまれた。だんっと鋭い音がして、背中が壁にあたる。ずきずきと背中が痛んだが気にするほどではなかった。目線をあげればそこにいたのはニヤニヤと厭らしい笑顔の上司。


「痛い」
「乱暴したのは謝るよ」
「謝ってもらった感じがしないわ」


端から見れば今この状況は明らかに男に迫られているようだが、女は依然としてそのポーカーフェイスを崩さない。ただ淡々と言葉を発するだけ。


「退いてほしいのだけど」
「嫌って言ったら?」
「殴っていいかしら」
「波江さ、言葉使い気を付けなって。美人なんだから勿体ないよ?あときっと君じゃ俺を殴れない」


その言葉に心底腹がたったので本気で殴ってやろうと思ったが、手首を掴まれているせいでそれすら儘ならない。どれだけ細身でも飄々としていても、目の前のこの人間はやはり男であるわけで掴まれている右手首を動かすことができない。こんなときだけ男女の力差と自分が女であることを恨む。


「いい加減にして」
「そう怒らないでよ」
「…何がしたいの?」
「そんなことがわからないほど鈍感じゃないでしょ?」


にっこりと清々しいくらいの胡散臭い笑顔を浮かべる上司をこれだけ殴りたい衝動にかられたのは初めてかもしれない。
すると首筋にキリッとした痛みを感じた。そこから溢れてくる赤い滴。それがなんなのか、私が考えてる間に彼はその傷口を艶かしく舐めあげた。途端、襲ってきたのはぞくぞくと何かが背中を走る感覚。


「っ、」
「波江の肌って白いよねー」


だからこんなに赤が栄えるんだ、なんてどうでもいいこと言ってないで早く退いて。出血は止まったのだろうか。場所が場所なだけに、しかも彼が被さってきているせいで確認ができない。


「なみえ」


耳元で囁かれるその名前は紛れもなく自分のものであり、その自分の名前を囁いたのはこの目の前の男である。低く、甘い声。くらくらと目眩がしていつでも倒れてしまいそうになった。


「俺ね、今日気分がいいんだ」
「…なんで」
「気づいたんだ」
「なにに?」


目線を何気なく下にやれば、散らかっていたのはさっきまで自分の持っていた書類だった。ああ、こんなにバラバラになったら片付けるのが面倒くさい。折角、整理してたというのに。


「波江のこと愛してるって、気づいたんだよ」


目線は直ぐ様、この男に戻った。目が合う。笑いかけてくる男の表情は相変わらずうまく読み取れなかった。息が苦しくなる。


「馬鹿なこと、言わないで」
「嘘じゃないよ?」
「嘘よ」
「嘘かどうかを決めるのは君じゃなくて俺だよ、これは俺の気持ちだからね」
「…それでも嘘よ」


そんなことあるはずないわと言う私のことを、やれやれといった感じで抱き寄せる彼。視界が真っ暗になって、あ、抱き締められてるんだ、と実感した。ぎゅう、と背中に回されている腕に力が入る。


「波江」
「うそよ」
「波江」
「違うの」
「なみえ」
「わたしは…」
「なみえ」
「わたしほんとは」


ぐるぐると廻る世界に吐き気がした。ぐっと彼の服の裾を握る。言ってはいけない、のに。わたしは、わたしほんとは。


「ねえ、なみえ」
「やめて」
「おれは」
「やめて」
「ほんとは」
「やめて…」


自分の気持ちも貴方の気持ちもまだ認めたくないの。だからお願い、その5文字はまだ言わないで。




言葉にしたら全て嘘になりそうな気がして、


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