あ、まずいなって思った。

やばい、泣くって、そう思った。そしたらほら案の定、ほろりと頬に透明な雫が一粒、綺麗につたい落ちた。長い睫毛に涙をつけて、俺が目の前にいるというのに、この人ははらはらと涙を流している。普段まったく弱みを見せないこの人が、矢霧波江が。

「なっ、波江さ…」

まさか泣くとは思わなかった。確かに言い過ぎた。確かに俺は彼女の最も愛し最も尊い存在である彼女の弟についての話をした。弟くんは君に振り向くことはないんだろうとか、君もいい加減他の男を見つけろとか、でも、そんなの今さらな話だし、何回もそんな話はしてきてる。そのたびに彼女はいつも通り冷たく言い返してくるから、今日だってこの会話が他愛ない日常として使われると思ったのに。ふと黙りこんでうつむいてふるふると震えだした彼女をみて、あ、と思ったときは遅かった。全身から気味の悪い汗がにじみでる。思考がはたらかなくなって、さっきからこぼれるのは渇いた自分の声だけ。

「波江さん、あの、」

気持ち悪い。喉の奥がはりつくような感覚、痛い。
あからさまに動揺している自分は滑稽だった。いつもはこれ以上の酷い言葉を人に浴びせているくせに、今まで自分の言葉で泣いた女など何人も見てきたのに。たった一人、年上で秘書の、この女が溢した一粒にここまで焦るとは自分でも思ってはいなかった。
なにか言わなくてはいけない。彼女の泣き止ます言葉を。肝心なときに役に立たない饒舌に業を煮やしていると、ゆっくりと薄くリップの引かれた唇が開いた。

「知ってるわ、」


誠二がもう私なんて見てないこと、私は一人にならなくてはいけないこと。ぜんぶわかってるの。わかってるけどできないの。今まで信じてたもの愛してたもの大切にしてきたものを一度に捨てることなんてできないの。疎まれてることも拒まれてることも理解してる、誠二にはもう姉の私なんて必要ないことも。でも、無理よ、つらいの、今までそうして生きてきたから。あの子のために生きてきたから。だから、


ほろり、ほろり。
そこまで一気に話すと波江はまた雫を落とした。そうだ。彼女が理解してないはずがない。頭がよく周りに目がいき誰よりも弟に敏感な彼女が、自分が弟にどう思われているか知らないわけがない。それでもなお彼女は弟を愛すことを止められない。彼を愛すことを生き甲斐にしてきた彼女は、愛されるのではなく、愛することしかしらない彼女には。誰よりもつらいのは波江なのだ。

「…ごめん」
「……」
「ごめんね、波江」

細いからだ、その首に腕をまわす。痛くないよう、それでも力を入れて抱くと、弱々しく彼女の手が俺のシャツを掴み返す。
きっと明日になったら彼女はまた、無愛想で冷たい、いつもの矢霧波江に戻るだろう。だから今だけ、このときだけは、俺だけに愛されていればいい。



もういいよ。