ちか、ちか。蛍光灯がわずかに何本か付いているが、すっかり暗くなったキッチンにぼうっと立っているのは俺と山田さんだ。紫の綺麗で長い髪をだらりと垂らして、自分の足元、床を見つめる大きな瞳はとても黒く、吸い込まれそうになる。山田さん、と声をかけるとその瞳が自分を捉えた。

「包丁ってさ、本来は人を傷つけるための道具じゃないって、知ってた?」
「はい」
「…そっか、」

そう返事をする彼女が右手に収めるそれは、包丁は、その包丁の先端は、蛍光灯の黄色を受けて白く光った。それは骨のようであったし、魚の鱗のようでもあった。やけにぎらぎらした彼女の瞳のようでもあった。

「じゃあ、どうしてそれを俺に向けるの?」

彼女はそれに答えずに刃は俺に突き刺さった、なんてことはなく、現在進行形で俺の数センチ前を浮いていた。彼女にしては珍しい、見たことのないような虚ろな瞳が俺の顔を見、包丁を見た。

「血がつくと錆びちゃうよ。それに佐藤君にも怒られちゃうよ。だからさ、その包丁は使って欲しくないかも、」

彼女はやはり何も言わなかった。何も言わずにただ、ただ俺に包丁を向けていた。蛍光灯の黄色が目に痛くて、俺はまばたきを早める。小さな彼女とその嫌な光を帯びた包丁はとても不格好だ。彼女は動かない。虚ろに光る瞳を携えて、俺に包丁を向けていた。


「おまえ、なにがしたいの?」


普段仲のいい歳下に対してこの言葉遣いはまずかったかとちらりと思ったが彼女はなにもアクションを起こさなかった。ただ包丁を向けていた。彼女の名前を呼びかけようとした途端、なだれる髪の隙間から見える、小さなくちびるが形をつくる。

「包丁もってたらね、そしたら、相馬さんが、ちゃんと山田を、わたしを見てくれるかなって」

彼女のくちびるから出たのは、か細く震えた言葉だった。そっか、と俺は答える。すると彼女の手は包丁を手放し、スローモーションのようにゆっくりと落下したそれは床にあたり金属音を生み出した。
かちゃ、ん。

「なーんちゃって!どうですか、相馬さん!すごいでしょう!今の山田の、演技!びっくりしましたか?びっくりしましたよね!」
「うん、びっくりした」

腰を曲げて彼女の握っていた包丁を手にとる。勿論俺はそれを人に向けることなくシンクの薄い水溜まりに浸した。さらりと髪を揺らしながら、今までとは明確にちがう笑顔で彼女は笑った。

「相馬さんのびっくりした顔が見れて、山田、楽しかったです」

そのどうしようもない虚ろな瞳を見て、どうしてか、どうしても、彼女を抱き締めたくなった。









(拾って、助けて、わたしを愛して)