「少量の出血なら放置しておいた方が綺麗に治るんだぜ」
ぴちゃん、ぴちゃん、と浴槽に赤い一滴を放擲しながら、何処か得意気に彼は呟く。平素なら此方が彼に教授する立場を取ることが多い。その為か彼が此方に何らかの情報を教える際、殊更自慢気に語り出すのだ。まるで両親に覚えたての知識を披露する幼子のようだ。
「血が固まって傷を塞いでくれるんだ。俺はある程度血が凝固したらガリガリ引っ掻いて剥がしちまうんだけどさ。ほら、たまにぷくって玉みたいになってるヤツあるだろ?アレって固まったのを削り落としたら楽しいんだぜ」
ガリガリ、ガリガリ、って、さ。
無垢な好奇心しか見えない表情のまま、手にしたカッターで手首に鑢でもかけるような動作で、示唆する。その意味を、行為の原理を、自分は何一つ把握出来ていない。
理解、したくもない。
浴槽にまた、ぴちゃん、と赤い音が滴る。
他人事のように冷めた湯に、赤い汚物が混じりきらぬままたゆたっている。白と黒のタイル張りの壁が静観する。排水口に絡まった数本の髪は鈍色の嘲笑を浮かべる。
この世界の何もかもがニヒルに現状を閉塞させている。湿気の詰まった狭い室内が虚無感に圧迫されている。
その元凶だけを、この空気から置き去りにして。
「いたいんだけど、かゆいんだけど、ぐるぐるするんだけど、これだけで充分なようになるんだ。だんだん、だんだん」
自らの言葉尻を淡々と反芻しながら、彼は手首に刃を滑らせる。浅く、細く、赤い筋を増やしていく。
止めることも受容することも出来ず、俺は彼の気が済むまでその行為に付き合った。
彼のために作ったココアは今頃主を待ちくたびれて温もりが失せていることだろう。
正気に戻ったら、また、暖かいものを入れ直そう。そうして砂糖の配分を考えることで現状から逃避した。