04




「ちょっと、渚っ!」

滴は授業が終わるとすぐさま渚に引っ張られ、廊下を走る羽目になった。
予想以上に彼の力が強く、その男にしては小柄な体のどこにそんな力を秘めているのかと、前を走る後ろ姿に真剣に問いたくなった。
それはともかく、体力のない滴は三年生の教室に着く頃にはすっかり息切れしていて、ふらりとよろけてしまう。
しかし、渚は構わず手を引いたまま、目の前の教室に堂々と足を踏み入れていく。

「えっ」
「ハルちゃん! マコちゃん!」
「渚?」

突然あがる渚の大きな声に、談笑していた男ふたりが振り返る。
一際背が高く、垂れ目で物腰の柔らかそうな茶髪の男は目を丸め、黒髪の無表情な男は顔色一つ変えることなく、渚を迎え入れた。
一方、滴は何の断りもなく入ってもいいのだろうかと、内心びくびくして身を縮ませていた。
少しでも目立たないように、その一心で。
しかし、残念ながら茶髪の男と黒髪の男の目にはしっかりと留ってしまっており、注目されて更に委縮してしまう。

「あれ、その子……」
「クラスメイトのしずちゃんだよ! 小六の時の大会で、僕たちが泳いでたの見てたんだって!」
「え、そうなの?」

目を丸くしてこちらを見る男たちに、しゃんと背筋を伸ばし、慌てて挨拶をする。

「どっ、どうも初めまして! 瀬良滴っていいます! 実はあの大会、あたしの知り合いも出てて、それでせせせ先輩方のことも拝見しておりましてっ!」
「いいよ、そんなに緊張しなくても」
「あっ……はい!」

眉を下げて笑う茶髪の彼には、人当たりの良さを感じる。
とにかく怖い人じゃなくてよかったと心から安心して、少しだけ肩の力が抜ける。

「あ、渚から聞いてるかもしれないけど、俺は橘真琴。で、こっちが……」

皆の視線が、黒髪の彼に移る。
注目を集める彼は表情筋をぴくりとも動かさず、唇だけが小さく動いた。

「七瀬遙」

これが噂の『ハルちゃん』。
凛が一目置いていた上に、渚もあんなにも慕っていたので、どんな人かと想像していたのだが。
いささか、勝手に抱いていたイメージとは違ったようである。

「ごめんな。無愛想だけど、悪い奴じゃないんだ」
「いえ、大丈夫です! お気遣いなく……」

へにゃりと苦笑いを浮かべて遙のフォローをする真琴に、慌てて首を振る。
この人も苦労してそうだなぁ、と少々親近感がわいてしまったのはここだけの話である。

「それでさ、このしずちゃんが、水泳部の助っ人に入ってくれるんだって!」
「え、助っ人?」
「ちょっ、ちょっと待って渚! なんか話大きくなってないっ?」

思わぬ言葉にぎょっとして、慌てて制止をかける。
『助っ人』だなんて、それではまるで部員と大差ないように聞こえてしまうではないか。

「だって、手伝ってくれるって言ったじゃん!」
「そりゃあ、協力するとは言ったけど! 助っ人って言うのはまた違うんじゃっ……」
「えーっと、つまり、どういうこと?」

必死に言い合っていると、真琴が困惑した顔を小さく傾けて問いかけてきた。
隣に立つ遙は、相変わらず我関せずといった顔である。

「実は、渚にマネージャーにならないかって誘われたんですけど、家の事もしなくちゃいけないし、そう毎日は残れないって断ったんですよっ。でも、知り合いが水泳やってる姿見てたし、渚のことも応援したいな〜って思って! だから、たまになら何か手伝えるかもって言ったら……」
「渚に良いように振り回されてるわけだ」
「まあ……そんなところです」

残念ながら、状況を汲み取ってくれた彼の言葉を否定することはできず。
しかしはっきり否定してやるのも可哀想かと思ったので、目を逸らし、引きつった顔で笑いながら濁すと、察した真琴に苦笑されてしまった。
ありがたくも、彼は人の気持ちをよく理解してくれる性格のようである。
横から渚が頬を膨らませて何か反論しているが、まともに相手にするのはやめておく。

「あっ、でも! あたし自身そんなまともに泳げないから水泳のことはあまりわかってないし、大したこともできないんですけど。迷惑じゃなければ、何かお手伝いさせてください!」

凛と繋がりのある彼らと関わるのは、気まずい。
そう思っていたはずなのに、自然とこんなことを口走ってしまっていた。
恐らくは真琴がいい人だったからだろう。
そして、渚の一途さに引き寄せられたというのもあるのかもしれない。

「迷惑だなんて、とんでもない。えっと、しずちゃんだっけ。じゃあ、無理のない程度によろしく頼むよ。いいよね、ハル?」
「俺はどっちでもいい」
「あ……こっ、こちらこそよろしくお願いします!」

受け入れてもらえたのが素直に嬉しくて、張り切って頭を下げてしまった。
真琴と渚の軽やかな笑い声が聞こえる。
ちょっぴり恥ずかしく思いながら頭を上げると、渚が不意に何か思い付いたらしく、弾んだ声をあげた。

「あ、そうだ! しずちゃん、早速なんだけど、今日の放課後って空いてる?」
「はいっ?」

よく輝いた視線が、嫌に突き刺さる。
本当に早速、またもや渚に振り回されることになるらしい。



下校中にその時のことを話すと、江はどことなく嬉しそうにこちらを見つめた。

「滴、七瀬先輩たちに会ったんだ」
「凛お兄ちゃんとのことは言ってないけどね」
「え、なんでっ?」
「なんでって、色々聞かれるとなんとなく気まずいし」

不満そうに顔を覗き込まれ、ばつが悪くなって顔を逸らす。
自身の夢のために新しい一歩を進もうとしていた彼に、泣いて喚いて駄々を捏ねてしまったのだ。
そんなことを知られたら、恥に決まっている。

「小学生の時の話でしょ? そんな気にしないんじゃないかなぁ……お兄ちゃんも」

突然、話に食い込んできた存在に、思わずどきりとする。

「な、なんでそこで凛お兄ちゃん?」
「だって、いい加減、仲直りしてもらわないと」
「仲直りって……できるかわかんないし」
「できるできないじゃなくて、するの!」
「は、はいぃっ!」

むっと眉を寄せて睨んでくる江の圧力に押され、慌てて頷いてしまった。
凛と別れた後から、江はずっと滴を励ましてくれていた。
きっと彼女も、昔のような関係に戻りたいと思ってくれているのだろう。
それはとてもありがたいことなのだが、申し訳なくも、その思いを叶えてやれる自信はこれっぽっちもない。
そんなことを言ったら確実に怒られてしまうので、胸の内にしまい込み、ぼんやりと空を見た。
まだ夕方の明るい、海のように深い青色の空だった。


 

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