02




厳かな静寂に包まれる大晦日。
中学一年生の凛は年末年始の間、オーストラリアから日本に帰国し、実家で過ごしていた。
やはり実家だと気が楽でいい。
特にすることも思い付かないので、なんとなく雑誌でも眺めながら、自室のベッドに寝転がって寛いでいたのだが。

「お兄ちゃーん。明日、滴と初詣行くんだけど、お兄ちゃんも行く?」

江がいきなり断りもなく部屋に入ってきたかと思えば、そんな誘いを持ち込んできた。
今年もあと数時間で終わるというのに、おかげで気分が地の底にまで落ち込んでしまったではないか。
江は知らないのだろうか。
昨年の冬、滴と自分との間で起こったことを。
しかし、わざわざ説明してやる気は全くもって起きないので、素っ気なく返すことにした。

「……いい」
「えー! せっかく帰ってきてるんだし、滴にも会えばいいのに」
「アイツ、俺のこと嫌いだし」
「もーっ。そんなの、本気で言ってるわけないでしょ!」

どうやら知っていたらしい。
呆れ顔で何の引っかかりもなく、すんなりと受け入れて反論してくる江を横目で見て、確信した。
恐らくは滴本人の口から聞いたのだろう。
だとすると、江の言っていることは決して気休めではないのかもしれないが、それでも今更どうこうしようという度胸はなかった。
会ったところで、何を話せばいいのかもわからない。

『凛おにーちゃん!』

一年前までの関係に戻れるのなら、戻りたい。
またあの頃みたいに、滴が無邪気な笑顔で慕ってくれるのなら――しかし、そんな願いを叶えに行く勇気はない。



冷たく澄んだ空気が漂う、とある冬の日。
凛は小学校六年生、滴と江は五年生になっていた。

「滴に、大事な話があるんだ」
「大事な話?」

大きな夢と希望を胸に抱きながら、滴を家に呼び出した。
滴なら、応援してくれるだろうと思ったから。
凛が思い描く先は、明るい未来と、ロマンチックな約束を交わすふたり。
逸る気持ちを必死に抑え込みながら、平静を装って言葉を紡ぐ。

「俺、中学からオーストラリアに行くんだ」
「オーストラリア……?」

きょとん、と目を真ん丸にして、首を傾げる滴。
あまりに唐突かつ重大な報告だったせいか、まだ理解しきれていないのだろう。

「言っただろ? 俺の夢、オリンピックの選手になることだって」
「うん……」
「そのためにはオーストラリアに行って、水泳の勉強をしなくちゃならない」

優しく言い聞かせるように伝えるも、彼女は呆然としていて、顔色は優れない。

「それと、来月から岩鳶小に転校することにした」
「えっ?」
「オーストラリアに行く前に、どうしてもやりたいことができたんだ」

七瀬遙の姿を脳裏に浮かべながら、力強く告げる。
ようやく理解してきたのだろう、滴の表情に驚きと焦りが表れだし、おろおろと目を泳がせた。

「で、でも、そんなこと、江ちゃん一言も言ってない……」
「転校するのは俺だけ。おばあちゃんの家から通うことにしたから」

次第に、滴の顔が動揺を見せながら、下へ下へと沈んでいく。
対照的に凛は胸の昂りを抑えることができず、気がつけば拳にめいっぱいの力を込めていた。

「俺、がんばるから。今よりもっと速く泳げるようになる。だから」
「やだ」
「えっ?」

不意を突いて震える声に遮られ、どきりと胸が跳ねた。
唖然と目を瞬かせていると、滴が遂に顔を上げた。
ひどく悲しみに歪んでいて、瞳が充分すぎるほどに潤んでいて、思わずぎょっとした。

「凛お兄ちゃんがいなくなるなんて、やだ!」
「滴……」
「言ったもん……ずっと、いっしょにいてまもってくれるって!」

ずん、と心臓を掴まれたような感覚に陥った。
彼女が母親を亡くして深い悲しみに暮れていた時に、確かにそう自分はそう言ったし、そうしてやりたいと心から思った。
少しの罪悪感に、弁解の言葉を奪われる。
予想外の展開を目の前にして呆然としているうちに、滴の頬を溢れ出す涙が伝っていく。

「凛お兄ちゃんのうそつき! お兄ちゃんなんてだいっきらい!」
「滴!」

滴はそう吐き捨てて、飛び出して行ってしまった。
慌てて引き止めようと伸ばした手は実体を捉えることなく、宙を彷徨う。
夢に近付いたその時、滴を迎えに行くつもりだった。
そして夢を叶えたその瞬間、滴には隣にいて笑顔で祝福してほしかった。

だって、滴が大好きだったから。


滴と距離だけでなく、心まで離れたことは、凛の胸に深い爪痕を残してしまったが、それでも前に進まねばならなかった。
尊い夢を叶えるためにも。
岩鳶小学校で出逢った、七瀬遙、橘真琴、葉月渚――彼らと泳ぐメドレーリレーは、確実に第一歩となった。
大会決勝、優勝の瞬間。
泳ぎきった後、プールサイドから客席の中に滴の姿を見つけて、昂揚していた胸が更に騒ぎ立てた。
彼女は一切、目を合わせてはくれなかったが。
隣には彼女の父親と、江たちもいた。
後に話を聞いたところによると、江が半ば強引に誘ったのだという。
自分たちが勝利を手にしたあの瞬間、彼女は何を思っただろうか。
少しでも祝福してくれただろうか。

答えを知ることなく、凛はオーストラリアへ発ってしまった。


そして現在、長期の休みにこうして一時的に日本に帰ってきた。
オーストラリアで培った実力を、絶対的なライバルである『彼』相手に試したかった。
あんなにもがむしゃらに勉強したのだ、あの、過酷な環境の中で。
そのために失ったものだってある。
負けるわけにはいかないし、負けるはずがないと、それだけの自信があった。

それなのに、凛は圧倒的な力の差を見せつけられた。

愕然とした。
悔しいだとか、そういう域ではなかった。
大きなショックが頭を打ち付け、次第に涙が溢れ、凛はその場で泣き崩れた。
こんな姿、滴になんて見せられない。

別れ際の彼女の泣き顔と、大嫌いという言葉が記憶の中でちらついた。


 

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