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「えっ、泳げなかったの?」

朝の登校時間、江から合同練習の時のことを聞かされていたのだが、思いもよらぬ事実に唖然とした。
その時のことを思い出してか、江はがっくりと肩を落としている。

「飛び込む前のフォームはすっごくよかったんだけど……まさか、カナヅチだったなんて」
「だからあんなに嫌がってたわけだ。プライド高そうだもんなぁ、あいつ」

なるほど、妙に納得がいった。
渚の誘いを頑なに断っていた怜の姿を思い浮かべる。
あくまで水が嫌いだと言い訳をしていた彼だったが、本当は泳げないことを知られたくなかったらしかった。
惨めな姿を晒してしまった彼の心境を想像すると、ちょっぴり同情してしまった。

「これで、正式入部の望みは絶えたってわけ」
「そうだねぇ……」

こうなっては、彼を戦力に入れるのは不可能である。
一難去ってまた一難。
また勧誘活動に追われる日々が始まるというわけだ。
今回の合同練習の時のように、また奇跡でも起きればいいのに、と小さく願いながら、ふとあることを思い出す。

「あ、そういえば江。合同練習の日ってさ、おばさん、うちのお母さんのお墓参りに来てたりとかしなかった?」
「おばさんのお墓参りなら、昨日、私も一緒に行ったけど……なんで?」
「……その日、あたしたちが行った時に真新しい花束が置いてあったから。誰かと思って」

実はずっと気になっていた。
やはり祖母ではなく、親戚に聞いてもその日に来たという人はいなかった。
母の友好関係には詳しくないので、何とも言えないが、他に思い当たる人物はいない。
ぼんやりと考え込んでいると、江が徐に呟く。

「……お兄ちゃん、とか」
「へっ?」
「あくまで可能性だけど?」

時折、凛のことを出してくる江は、とにかく心臓に悪い。
だけど、もし本当にそうだったとしたら、絶たれたと思っていた希望がまだ細々と繋がっている気がして、少し嬉しかった。



なんと、渚は怜を水泳部に引き入れることをまだ諦めていなかったらしい。
とはいえ、以前ほど執拗な勧誘はしなくなった。
それでも怜は渚を相手にする様子はなかったわけだが。
さすがにもう無理だろうと思い込んでいた矢先、新たなる奇跡が起きた。

「え、竜ヶ崎、結局水泳部に入ったの!?」
「僕は決めたんです。七瀬先輩のように、自由に泳げるようになると!」

朝の教室に、滴の驚愕の声がまたもや響き渡った。
目の前に座っている男はやる気に満ち溢れており、数日前の彼とは大違い。
希望に目を輝かせる怜に、渚も満足そうである。

「へ、へえ……あんなに嫌がってた人間の言葉とは思えないんだけど」
「合同練習の時にハルちゃんの泳ぎを見て、感動したんだって!」

そういえば、渚も遙の泳ぎに憧れている。
真琴も彼には一目置いているようだし、凛もやけに遙という存在に拘っているという印象を受ける。
彼の泳ぎにはそれだけ人を惹き付けるものがあるのだろう。
自分だってかつての凛の泳ぎに憧れて、あんな風に泳げるようになりたいと、水を克服したいと思った。
怜の気持ちは充分に理解できる。
が、しかし。

「でもさ、大会出るんでしょ? 今から一からやって、間に合うの?」
「大丈夫です。理論に基づいて、必ず泳げるようになってみせます」
「さっすが怜ちゃん! 心強い!」

その得体の知れない自信はどこからやってくるのか。
胸を張って宣言してみせる彼に、渚は信頼しきっている様子。

「そんな簡単にいくかなぁ……」

そんなふたりから目を逸らし、半信半疑に呟いた。



春も深まり、暖かい気候になってきたので、とうとう今日からプールを使っての練習が始まることになった。
同時に、怜の特訓も始まるということで、差し入れにスポーツドリンクを持って様子を見に来たのだが。

「こんなはずでは……!」
「怜ちゃん、頑張ってるんだけどなぁ」

プールサイドには項垂れる怜と、励ます渚の姿。
やはり、現実はそう簡単にはいかないものなのである。

「理論だけでどうにかなるんだったら、あたしだってとっくに泳げるようになってるっつーの」

ドリンクをふたりに差し出しながら、溜息混じりにぼやく。
礼を言うと共に受け取った怜は、自分のことを棚に上げたような目でこちらを見る。

「瀬良さんも泳げないんですか?」
「何、そのバカにした目は。泳げない。っていうか、ちょっと怖いんだよね、水」
「怖い?」

ペットボトルのキャップを開けながら、渚が首を傾げる。

「あんま記憶にないんだけど、ちっちゃい頃にプールに落ちて溺れたらしくてさ。それからずっと怖いみたい。最初はお風呂にも入れなかったんだって」
「そうだったんだ……」
「でも、今はプールなら入れるようになったから……凛お兄ちゃんのおかげで」

最後はあまり言いたくなかったが、しかし彼がいなければきっとプールになんて入れなかったので、小さく控えめに付け加えておいた。
が、やはり周りは気を遣ってか、妙な空気が生まれてしまう。
滴は慌ててはぐらかすように少し声を張った。

「ま、まあとにかく。あんたが泳げなきゃ大会出られないんだし、頑張りなよ」
「ええ。言われなくてもそのつもりです」

半ば意地になっている気がしなくもないが、果たして大丈夫なのだろうか。
断言する怜を見て、少し不安になった。


 

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