09




ひとつ欠伸をしながら、滴は教室に入る。
女友達と軽く挨拶を交わしながら、自分の席に着いたのだが、朝から何やら騒がしい。
ふと横を見ると、赤縁眼鏡の男子に迫る渚の姿。

「だから、何度も言っているじゃないですか。僕は水泳部になんて入りません」
「ええーっ! そんなこと言わずにさぁー!」
「駄目と言ったら駄目です」
「そこを何とか! ね! お願い!」
「何やってんの、渚」

どうやら眼鏡の彼は、渚に気に入られてしまったようである。
席を立ってふたりに近付くと、渚が勢い良く振り返り、ぎらりと目を輝かせた。
瞬間的に嫌な予感がしたが、時既に遅し。

「あ、しずちゃん! ねえ、しずちゃんからもお願いしてよ!」
「は?」
「誰から誘われても、水泳部には入りません。そもそも、僕は既に陸上部に入っているんですよ」
「じゃあだめじゃん」

思わず即答した。
既に部活に、それも運動部に入っているというのに、勧誘などしても無駄だろう。
運動部同士の掛け持ちなど、無謀にも程がある。
しかし、渚はやけに彼に拘っている様子。

「でもでも、これって運命だと思うんだよ!」
「運命? 何、実は水泳やっててすごい記録持ってるんですー、とか言っちゃう感じ?」
「ううん。名前」
「名前?」
「竜ヶ崎怜ちゃんっていうの。僕達と同じなんだ。男なのに女みたいな名前!」

思わず絶句した。
それだけの理由で、嫌がっている人間にしつこく勧誘していたのか、この男は。
あまりに衝撃的な理由に怜も頬を引きつらせ、戦慄している。
さすがに不憫に思えてきた。

「そ、そんなふざけた理由で僕を誘っているんですか!」
「ふざけてないよー!」

本人は至って真剣だが、滴が聞いてもふざけているとしか思えなかった。

「第一、僕は水が嫌いなんです。水泳部には絶対に入りませんから」
「そんなぁ……」
「ほら、渚。もう諦めなって」

固く意思の変わらぬ彼に何を言っても、これ以上は無駄だろう。
眉を下げて肩を落とす渚の襟を摘まみ上げ、怜の机から引き剥がした。
ようやく解放され、大きく息を吐く彼に、申し訳なく思えて。

「なんかごめんね。朝からお騒がせしちゃってたみたいで」
「瀬良さんが謝ることではありませんよ……そういえば、瀬良さんも水泳部なんですか?」
「ううん。あたしは家の事情で部活入れないから。たまーにお手伝い。主に渚に振り回されてるんだけどね」
「そうなんですか。それは何というか……大変そうですね」

ははっ、と空笑いしてみせると、怜は渚を一瞥し、同情を込めて返してくれた。
彼とは不思議と解り合えそうな気がした。

「ま、渚の気持ちもわかるんだけどねぇ」

大好きなことに打ち込むための妥協は許さない。
そんな渚の姿勢は、尊敬できる。
一直線なあまり、少しばかり強引なのが難点ではあるが。



昼休み、江のクラスの教室を訪れ、江の友達も交えて弁当を広げている。

「合同練習? 鮫柄学園と?」

そんな中、江の口から告げれたのは朗報であった。
滴が自転車であちこちのスーパーを駆け回っている間に、江は鮫柄学園にひとりで乗り込み、水泳部の部長に話を付けてきたらしい。
江の行動力も、渚に負けていない。

「うん。だけど、合同練習には部員が最低でも四人必要で……」
「やっぱあとひとりかー」

滴と江は頭を悩ませる。
せっかく取り付けた合同練習、この機会を無駄にしてしまうのは勿体ない。
やはり、何が何でも新入部員を引き入れなければならないらしい。



それからも必死な勧誘が続いたが、成果は一向にない。
絶望的な状況の中、とうとう合同練習の日を迎えてしまった。
が、どうやら朝になって状況が一変したらしく。

「えっ、何、結局水泳部入ったの!?」
「ええ、仮入部ですけどね」

教室に、滴の驚きの声が響き渡る。
あんなにも渋っていた怜が、水泳部に協力すると言い出したのだ。
にわかには信じられず、顔色を窺うように覗き込む。

「どういう風の吹き回し?」
「渚くんがあまりにもしつこいので、乗ってあげたんですよ。ただし、僕は泳がないしという条件でね」
「な、なるほど」

ただただ人数合わせのために、今回限り、ということらしい。
毎日のように勧誘されるのがよほど疎ましかったのか。
もしくは根が優しい人だったのか。
どちらにせよ、今は彼が救世主にしか見えない。

「何にせよ、よかったじゃん」
「うん! これで安心して合同練習に行けるよ!」

怜には悪いが、本当に嬉しそうに笑う渚が微笑ましかった。



真っ青な空の下、静かに魂が眠る地で。
滴は父と並び、可憐な花束を手にしながら、ずらりと石壇の並ぶ、緑の芝生を歩いていた。
合同練習のことも気にかかるが、今日という日ばかりは、どうしても外せなかった。
父も仕事を早く切り上げて帰ってきた。
今日は瀬良家にとって一番に大切な日――母の命日である。
やがて母の名が刻まれた石壇の前に立つと、滴と父はきょとんと顔を見合わせた。

「今日、おばあちゃんとか来るって聞いてないよね?」
「あぁ、都合が悪いから、この間済ませたって……」
「じゃあ、江のお母さんとか……いや、でもそんな話してなかったし」
「他に心当たりはないしなぁ」

既に捧げられている綺麗な花束を前に、親子は不思議だと首を傾げるばかりであった。


 

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