08




いつもの賑わいを見せる昼の食堂、その一角で。

「それで、その……付き合うことになっちゃったわけですよ」

熱く火照った顔を、机の上で組んだ腕の中に埋めた。
トキヤと付き合うことになったと報告した途端、瑞歩は自分のことのように喜んでくれた。
それは嬉しいのだが、目の色を変えた彼女から質問攻めを受け、洗い浚い話す羽目になってしまったのである。
自分の恋愛話をするのも、真っ赤になっているであろう顔を見られるのも恥ずかしくて。

「ほーら、だからキューピッドになるって言ったじゃない」

何故か瑞歩は誇らしげだが、彼女の言っていることは確かに正しかった。
まさか本当にそうなるなんて、思いもしなかったが。
あの想いが通じ合った日のことを思い出しても、未だに夢だったのではないかと疑ってしまうくらいに。

「瑞歩には心から感謝してます」
「そう思うのなら、今度何か奢ってよねー」
「うっ。瑞歩の鬼ー!」

何というか、ちゃっかりした親友である。
が、彼女に感謝しているのも本当なので、近々、アイスでも奢ろうと思う。

「でもさ、向こうの仕事が忙しいのもそうだけど、これからテスト期間近くなってくるし、あまり会えないんじゃない?」
「あ」

夢のような輝かしい日々に、現実という名の影が落とされた。

「優衣って確か、この前の中間テストで数学ギリギリ欠点だったでしょ」
「うっ」
「次も欠点だったら、夏休みの補習に呼ばれるんじゃなかったっけ?」

血の気が引いた。
そう、数学の担当教員がつい先日に言っていたのだ。

『この間のテストで欠点だった奴は、次頑張らないと毎日補習だからなー』

鬼だと心の中でつい悪態を吐いてしまったのは、記憶に新しい。
夏休みにさえ入れば、トキヤと過ごす時間が増える。
いくらでも彼の空いている時間に、こちらから合わせることができる。
しかし、補習が入ってしまったら……。

「トキヤさんに……会えなくなっちゃう……」

全くなくなるわけではないにしても、会う時間が減ってしまうのは確実で。
考えただけで悲しくて、泣いてしまいそうだ。
そんな優衣の情けない顔を見て、瑞歩は呆れた表情で笑った。

「ま、頑張ることね。テスト勉強、また一緒にやろう」
「うん。ありがとう」

瑞歩の優しさに感謝しつつ、優衣は心を鬼にする決意をした。


そんな矢先、早速の誘惑と闘うことになる。

『来週の土曜、オフになったんです。会えませんか?』

その日の晩、トキヤから電話がかかってきたのだ。
声からはどこか嬉しそうな雰囲気が伝わってきて、胸が痛んだ。
会いたい、一緒にいたい、けれどできない。
そして渦巻くトキヤへの罪悪感。
でも、これからのふたりのためには、耐えなければならない。

「……あ、あの、ごめんなさい。あたし、しばらくトキヤさんには会えません」
『え?』
「メールも、電話も。しばらくの間は、できません」

言ってしまった。
彼が戸惑っているのが、声でわかる。
ごめんなさい、と何度も心の中で唱えて、彼の反応を待つ。
ドク、ドク、と心臓がいやに脈打っている。

『……何か、あったのですか?』

返ってきたのは、優しい声。
ぎゅっ、と胸が締め付けられた。

『君が私の支えになってくれたように、私も君の力になりたいのです。何かあったのなら、私に相談してください。ひとりで抱え込まないで』
「数学」
『……はい?』

一瞬の、間。

「数学、欠点だったんです。この間のテスト」
『……はぁ』
「次のテストも欠点だったらあたし、夏休みに毎日補習行かなきゃいけなくなるんです。そんなことになったら、トキヤさんに会う時間が減っちゃいます。だから」
『数学のテスト勉強に専念したいから、今は会えない、と』
「そういうことです……」

心なしか呆れられている気がするのは、恐らく気のせいではない。
ついでに、数学が絶望的に苦手だということも知られてしまい、先程までとは違った心地の悪さを感じる。

『だったら、私が君の家に行きます』
「へっ?」
『私が、君の勉強を見ます』
「ええっ!?」

予想外の展開に、優衣はぎょっとした。
そして、慌てだした。

「で、でも、お仕事で疲れてるでしょうし、そんなっ……」
『君に会えるのなら、喜んで行きますよ』
「でもー……」

せっかくの休息の時間、こんなものに潰していいはずがない。
納得できずに渋っていると、訝しむような声。

『君は、私に会うのが嫌なんですか?』
「嫌じゃないです! むしろ……その……会いたい、です」

咄嗟に勢い良く否定した後。
恥ずかしさ半分、遠慮も半分に小さく本音を零すと、電話の向こうでクスリと笑う声が聞こえた。

『では、決まりですね』
「よ、よろしくお願いします!」

恐縮ながら会える喜びに、興奮を抑え切れず、ついつい思いきり頭を下げてしまった。



そして、来る土曜日。
トキヤと会うのは、ふたりの想いが結ばれたあの日以来である。
何だか妙に懐かしくて、胸が温かかった。
が、トキヤを家に迎え入れながら、申し訳なく眉を下げる優衣。

「なんかすみません、わざわざ来てもらっちゃって」
「君に会えないよりはよっぽどいいですよ」

ふっと微笑むトキヤの視線は優しさと愛に溢れていて、きゅん、と胸が苦しくなった。

「の、飲み物入れてきます! 先に部屋入っててください!」

何となく気恥ずかしくなって、熱くなった顔を誤魔化してトキヤの背を押した。
こちらの心境は既に知られているらしく、トキヤは笑っていた。


「これ、なんですけど……」

飲み物は部屋の中央にある脚付きテーブルに置き、勉強机に筆記用具と学校指定の問題集を広げて向き合う。
トキヤは姉が使っていた勉強机の椅子に腰掛け、優衣のすぐ傍で見守っている。
まるで家庭教師とその生徒の図である。
ただ、少々距離が近すぎるような気がして、優衣は内心穏やかではなかった。

「因数分解、ですか」
「はい……基礎は大体できる……かもしれないんですけど、応用に発展するともう駄目で」
「その口振りだと、基礎も怪しいですね」
「う。だってー……数学って言っておきながら英語出てくる意味がわかりません!」
「それを言うならローマ字です」

愚痴まみれの嘆きに、トキヤの冷ややかな指摘が刺さる、刺さる。
引き攣った笑みを浮かべ、がっくりと肩を落とした。
そんな優衣の隣でトキヤが、はぁ、と小さく溜息を漏らす。

「参考書はありますか?」
「は、はい!」

慌てて本棚から参考書を引っ張り出し、ページを捲る。
穴があったら入りたい、今すぐに入りたい。

「しかし、意外ですね」
「ん?」
「いつも一生懸命な君が、数学を前にするとこうもいい加減になってしまうとは」
「うっ」

困ったように眉尻を下げて微笑む彼の言葉が、また刺さった。
やっぱり、呆れられてしまっているだろうか。
心底落ち込んでいると、トキヤの手がこちらへ伸びてきて、髪をそっと撫でた。

「可愛らしい気もしますが、このまま放っておくわけにもいきませんからね。君が理解できるまで、付き合いますよ」

嗚呼、口調はとても柔らかいのに、その表情はどこか恐ろしく見えた。


 

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