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JG

結城中佐と紫乃



自分をスパイとして使ってほしい。それが女の望みだった。
どこから此処に辿り着いたのやら。その執念だけは褒めてやらんでもないが、諜報とはまるで縁のなさげな清らな女がそのような望みを口にすると、実に軽薄に感じられる。
あまりにも馬鹿馬鹿しいと、結城は思わず鼻で嗤った。

「あら、何が可笑しいのです?」

女は美しく整った顔にあくまで品の良い微笑を湛えたまま、小さく首を傾けて純粋な疑念を装ったが、その凛とした目は不愉快に細められている。鈴のように可憐な声も、僅かに重い冷たさを携えたように聞こえた。
どこか、狂気を孕んでいる。結城は本能的に感じた。だからこそ、女の願いを軽々しく嘲笑ってみせたのであるが。

「貴様がスパイになれるわけがない」
「まあ。それは一体、どういうことでしょう?」
「親に蝶よ花よと大事に育てられてきた貴様に、何ができる」
「あらあら、失礼な。私は私自身の力で此処に辿り着いたのですけれど」

今も尚、無邪気を装う笑みの向こうに、不快感が垣間見える。椅子に腰を据えていた結城は徐ろに立ち上がり、デスクの向こう側でこちらを見据える和服の女に、ゆっくりと歩み寄る。杖を片手に、足を引きずって。
近づいて、ますます確信を得た。女の瞳の奥に、強い復讐心が囚われ蠢いている。

「悪いな。女は雇わない主義だ」
「まあ、今度は差別ですか」

呆れた、と言わんばかりの口調で。女は尚も無邪気さを装って、口元に指先を添える。

「女はすぐ殺す。スパイにとって、殺人は最悪の選択だ」
「人を殺す可能性なんて、女に限らず人間ならば誰にだって持ちうるものではないのでしょうか?」
「フン、惚けたことを言うな。女は特に、愛だの憎しみだの、くだらん感情にとらわれやすい。今の貴様のように、な」

こちらを見上げる女の頬に手を伸ばし、革手袋越しに親指で目の下を撫でる。憎悪を潜ませる真っ黒な瞳が、ますます不快感を見せた。
とうとう、女は笑みを貼り付けるのをやめた。化けの皮が剥がれたと言っていい。佐久間の隣にいる時も、邸宅に腰を据えている時も、絶やさず浮かべていた穏健なる微笑が、嘘のように冷たく消えた。

「……私には、これまで培ってきたもの全てを捨てる覚悟があります」
「ほう。全てか」
「ええ。たとえこの身が汚れようと、私は目的のためなら何でもしてみせましょう」

真っ直ぐに交わる視線の中に、静かなる懇願を感じた。

「……なら、その覚悟。此処で見せてもらうとしようか」
「きゃっ!?」

女の腕を強く引き、その勢いに任せて女の体をデスクに押し付けた。黒い絹糸のような長い髪が、デスクの上で無造作に散らばる。
戸惑いに息を呑み、こちらを忌々しげに睨む女をただ冷ややかに見下ろす。無言の制圧に恐れを抱いたのか、その唇から溢れる声は僅かに震えていた。

「何をするのです……」
「全てを捨てる覚悟なんだろう?」

これから何が起きるのか、全て悟ったらしい。女の目は絶望に見開きながらも、葛藤に唇を噛み締めた。
女の葛藤を煽るように、結城は嗤う。

「どうした、怖気づいたか」
「い、いえ……別に……っ!」

嫌悪に体を震わせる女に構わず、色白い首筋をやんわりとした手つきで撫で続ける。よほど不快なのだろう、こちらを睨み上げる目が少しだけ潤んでいる。
それにしても、この反応。ある可能性に確信を持った結城は、女を哀れんだ。そうしなければならないほどに、女は復讐に囚われているのか。これまでどおり、平穏の中に身を置いておけばよいものを。

「さては貴様、処女か」
「っ!」
「このまま純潔を守りたければ、今すぐ此処から出て行け。今ならまだ、見逃してやる」

刹那、女の瞳が揺らいだ。与えられた甘やかな選択肢に、彼女の中に未だ残る清廉な心が淡く期待を抱いたのだろう。
それでも彼女は留まる気はないらしい。強く目を瞑り、全てを断ち切ったかのように再び目を開く。その瞳に、迷いはなかった。

「構いません。続けてください」
「フン。言っておくが、もう待ったはなしだからな」
「結構です」

哀れな女だ。結城は再び嗤い、先程まで可愛がるように撫でていた女の首筋に唇を這わせた。女の肩に力が入るのを感じながら、誰も触れたことのない清らな肌を柔く犯した。
女の復讐に手を貸してやると見せかけて、その愚かな理想を壊すために。



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