「───主、主、どちらにいらっしゃるのですか」


急いた足音とやや上擦った声とが、廊下の向こう端から呼び掛けてくる。

いつもの彼らしくない様子を不思議に思いながら襖を開けた途端に、部屋を覗き込んだ藤色の瞳と至近距離で視線が重なった。

互いに互いの瞳を見つめ合うこと、数瞬。


「……あぁ、良かった」


安堵したように眉尻を下げて長谷部が笑う。

手袋を嵌めたままの長い指が、何かを確かめるようにするりと私の頬を撫でた。


「………?長谷部、どうかした?」

「お戻りが遅いので心配致しました」


端正な面立ちを曇らせた彼はそう言うけれど、私が部屋を出てから、たぶんまだ10分も経っていない。

私の優秀な近侍は、時々とても過保護になる。


「……そんなに心配しなくても、私なら、」

「今朝までずっと臥せっておられたことをお忘れですか?何事にも真面目に取り組むのは主の美点ですが、無理はなさらないでくださいと、俺は再三申し上げた筈です」

「……ご、ごめんなさい……」


───ここ三日ほど高熱を出して寝込んでいた者としては、返す言葉がなかった。

ご無事で何よりですと笑った長谷部は私が今いる場所───台所を見て首を傾げた。


「ところで主、このようなところで何をなさっていたのですか」

「このようなところとはご挨拶だね、長谷部くん」


ひょっこりと顔を出したのは今日の夕食当番、お玉を持ったままの光忠である。

露骨に眉をひそめた長谷部は光忠から引き離すように私の肩を抱き寄せた。


「……君はつくづく分かりやすいね」

「お前には関係ないだろう」

「彼女は僕の主でもあるんだけど?」


徐々にひんやりとしていく空気に耐えられず、慌てて長谷部の袖を引く。


「あのね、光忠にお願いがあったからここに来たの」

「お願い?なぜわざわざ燭台切に?俺には出来ないことなのですか?」


あぁ、そんなに悲しげな顔をされると罪悪感で胸が痛む。

嫌な予感がひしひしとするから出来れば言いたくなかったけれど、もう仕方がない。


「………まだちょっと身体が怠くて……本調子じゃないから、今日の夜ご飯は軽いものにして欲し、」


最後まで言い切る前に、視界が切り替わった。

危なげなく私を抱き上げた長谷部は何の迷いもなく踵を返して、そのまま元来た方角───つまりは私の部屋に戻っていく。

遠ざかっていく視界の端で、楽しそうに笑う光忠の唇が「頑張ってね」と動くのが読めた。


「光忠ひどい……」

「俺と二人きりの時に他の男の名を呼ぶのはお止めください」


私を一瞥した、いつも優しい藤色の瞳に微かな苛立ちの色が滲んでいるのが見える。

そのまま逸らされた視線がひどく悲しかった。


「長谷部、ごめんなさい、ほんとうに反省してるから……」


嫌いにならないで。

長谷部の首に手を回して小さく呟けば、ぴたりと彼の歩みが止まった。

次いで、大切で仕方ないものにするようにそっと、ぎゅう、と抱き締められる。


「俺があなたを嫌うことなどありえないと知っていて、そのようなことを仰るのですか」

「長谷部……」

「………あなたが俺だけのものになればいいのに……」


吐息の触れる距離で囁かれたその言葉を、まるでかき消そうとするように唇が重なった。


「…っ、ふ、……はせ、べ……んんっ…」


呼吸をするためにひらいた唇を熱い舌がゆるりと這う。

つ、とうなじを撫でられた瞬間に、とっくに限界を越えていた身体の力が抜けるのを感じた。


「……お慕いしております、主……」

「……っ……!」


切なげに歪むその表情を見ただけでぞくぞくと背筋が震える。

壊れるのではないかと思うほどに激しく脈打つ心臓が痛い。

こうして抱き抱えられていなかったら、たぶん廊下にへたり込んでいただろうなと、どこか他人事のような考えが頭を過った。


「…長谷部のせいで、また熱が上がりそう…」


口付けの合間に零した一言に、なぜか長谷部は嬉しそうに笑う。


「俺が傍にいるのですから、主が案じることは何もございませんよ」


いつの間にか着いていた部屋の襖が開いたかと思えば、すぐにまた閉じられた。

じんわりと上がっていく体温のお陰でこのままゆっくり微睡んでしまいたかったけれど、きっとそうもいかないだろう。

解かれていく帯と衣擦れの音を聞きながら、もう一度、降りてきた唇の熱を大人しく受け入れた。




愛情過多の憂鬱

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