目の前を走り抜けて行った子どもが、二階の閲覧室に繋がる階段を踏み外すのが見えた。 考えるより先に身体が動いたのは、刻み込まれた特殊部隊隊員としての本能だ。 「ルリさん!」 叫ぶエレンの声をどこか遠くに聞きながら、ギリギリまで伸ばした腕で子どもの手を掴み、小さな身体を胸の中に抱え込む。 バランスが取れず自分の足も階段を踏み外す感覚がリアルに伝わり、一瞬背筋が凍り付くのを、目をつぶって耐えた。 背中が踊り場の床へ強かに叩き付けられる。 「…っ…!」 激しい衝撃に息を詰めるが、咄嗟に受け身を取ったため、頭部は打たずに済んだ。 子どもが火がついたようにワンワン泣き出したことに安堵して、そっと身体の力を抜く。 これだけ元気に泣けるなら心配ないだろう。 「ルリさん…!!」 階段を降りてきたエレンがすぐにルリを抱き起こしてくれた。 その後に続いて、子どもの母親らしき若い女性が蒼白な表情で駆け寄ってくる。 動揺するエレンに向かって大丈夫、と言ったつもりが、喘ぐような呼吸が零れただけだった。 「ありがとうございます、本当にありがとうございます…うちの子を庇って下さって…!」 子どもを抱き締めた母親が、涙ながらに感謝と謝罪を繰り返す。 ルリはどうにか笑みを浮かべた。 気にしないでください、という意味を込めて。 震える腕を動かして、泣きじゃくる子どもの頭を撫でてやる。 「…もう、図書館の中、走っちゃダメだよ」 「うん…!」 「ん、いい子」 そこまでが限界だった。 強い痛みに襲われ、思わず目を閉じる。 エレンが親子に向かって、後はこちらに任せてくださいと告げている最中、 遠ざかりそうな意識を引き戻すように、誰かが自分を呼ぶ声が響いた。 歪む視界の中に、青褪めた恋人の姿が映る。 「ルリ!」 迷うことなくルリの傍らに駆け寄ったリヴァイは、ぐったりとした彼女の様子を見て更に表情を険しくした。 掴み掛からんばかりの勢いでエレンを問い質す。 「頭を打ったのか!?」 「い、いえ、直前に受け身を取ったようで、打ったのは背中のみです」 「…そうか」 上官の迫力に圧されたエレンが緊張とルリへの心配から半泣き状態であるのには目もくれず、リヴァイは苦痛に眉を寄せる彼女の頬を優しく撫でた。 「医務室へ行くぞ。いいな?」 「…はい…」 「あ、あの、リヴァイ教官、なら俺が、」 遠慮がちに申し出たエレンを一睨みで黙らせる。 できるだけルリに負担を掛けないよう気を配って彼女を抱き上げたリヴァイは、努めて平静を保ちながら指示を与えた。 「俺はルリを医務室に連れて行く。一応精密検査を受けさせるから、午後は二人とも休むとエルヴィンに伝えろ。お前は終業までエルドと組んで館内警備だ。日誌は俺の机に置いておけ。分かったな?」 「は、はい!」 指示を受けたエレンが弾かれたように駆け出して行った。 反対に向かって歩き出しながら、リヴァイはじっと腕の中のルリに視線を注ぐ。 ルリが子どもを庇って階段から落ちるその一部始終を、彼は離れたところから目の当たりにしていた。 「…お前は余程俺を殺したいらしいな」 「…………?」 不思議そうに見上げてくるルリに溜め息を吐きながら、医務室のベッドに抱えていた身体をそっと降ろす。 常駐する職員に事情を説明して、搬送用車両の準備と近くの病院で検査を行うための手筈を整えた。 「リヴァイ教官…」 幾分痛みが和らいだ様子のルリが起き上がろうとするのを制して、リヴァイは枕元に腰を降ろす。 その眉間には深く皺が刻まれていた。 (…たぶん絶対間違いなく怒られる…!) 確信して慄くルリにもう一度溜め息を吐いてから、腕を組んで軽く睨み付ける。 「やってくれるじゃねぇか、ルリよ」 「す、すみませ…!」 小さな身体をさらに小さく縮ませて震える姿が幼く見えて、そんな場合でもないのに思わず笑ってしまった。 「…まぁ、上司としてはよくやったと褒めてやるべきなんだろうが」 くしゃりとやわらかな髪を梳く。 ルリと出逢ってから、いつだって感情を掻き乱されてばかりいる。 それを不快だと思ったことは一度もないが、心臓に悪いのは確かだ。 「お前の能力を信じていないわけじゃない。だが無茶はするな」 「教官…」 「お前に何かあったら、俺はどうすればいい、ルリ」 唇が触れそうな距離で囁いたとき、まるで見計らったかのようなタイミングで「車両の準備が整いました!」という報告が飛んできた。 短く頷いて、再びルリの身体を抱き上げる。 慌てたのはルリの方だ。 「あの、リヴァイ教官、降ろしてください!自分で歩けます!」 さっきは痛みに気を取られて気付かなかったが、衆人環視の中をお姫様抱っこで運ばれるというのは結構な羞恥プレイだ。 通り過ぎる隊員たちから突き刺さる視線が心なしか生温い。 「うるせぇ」 一言で却下したリヴァイは、ニヤリと笑ってルリを見下ろす。 「検査から帰ったらたっぷりと説教をくれてやる。それとも身体に直接躾られる方が好みか?」 「…お説教がいいです…」 容赦のない笑みを直視できず、せめてもの細やかな抵抗として、ルリは赤くなった顔を掌で覆い隠した。 たぶんどっちを選んでも、行き着く先は同じ筈だ。 観念しながら、でも結局最後は甘やかしてくれるんだよなぁと考えて、大人しく運ばれていくルリであった。 もてあそばれる心臓 |