「…あのう…リヴァイ兵長…?」 ありったけの勇気を総動員して振り絞った声は、あっさりと黙殺された。 なでなでと頭を撫でる手の温かさを感じながら、ルリはもう何度呟いたか分からない問いを胸の中で繰り返す。 (誰かこの状況を打開する方法を教えてください…!) だがしかし、二人きりの沈黙に満ちた室内で、答えなど返ってこよう筈もない。 そしてこの部屋の主であるリヴァイは、困り果てた表情のルリを一向に気にした様子もなく、無言で彼女の頭を撫でていた。 書類を届けにきた筈のルリだったが、入室した途端リヴァイに腕を掴まれソファへと強制連行され、現在に到っている。 端から見たらシュールで笑える光景に思えるが、当事者ともなると笑うことなど不可能だ。 (ていうか、潔癖症はどうしたんですか兵長…!まぁ問題はそこじゃないですけどね…!) 初めはどこか恐る恐るだった。 どう触れたらいいか分からないと言うように、そろりと指先が髪の毛を一筋絡め取って。 やがてルリが拒絶しないことが分かると安心したのか、さらさらと掬い上げては落として手触りの良い感触を楽しみ始めた。 最も、正確に言えばルリは拒絶しなかったのではなく、出来なかったというのが正しい。 (…奇行種三体を同時に相手してる方がまだマシなような…) むしろ目の前の上官こそが奇行種そのものに他ならなかった。 対処の仕方が本気で分からない。 それでも、多分頑張れば逃げ出せたのだ。 なのにそうしなかったのは。 (…手が優しい…) 髪に触れる手も、向けられる視線も、そのどれもが慈しむような優しさを孕んでいたから。 それらが少しでも粗暴であったり悪意のあるものであったりしたならば、躊躇うことなくこの場を逃げ出していた。 彼の行動の真意は全く分からなかったが、何しろ相手は人類最強と名高いリヴァイ兵士長である。 きっとしがない一兵卒の自分如きには理解できない深淵な理由があるのだろうと結論付けると、だいぶ楽になった。 何となく余裕さえ出てきて、ルリはほっと身体の力を抜いた。 リヴァイの指先はまだ彼女の髪を弄んでいる。 (…暇だなぁ…) しかし、流石に座ったままでいるだけというのも退屈極まりない。 くるりと視線を廻らせると、無造作に投げ出されたリヴァイの左手が目に入った。 ルリに触れているのとは反対側の手だ。 なかなか無い機会なので、この際だからじっくりと観察してみることにする。 (…意外と手は大きいんだ…) すらりと長い指はいかにも男性らしくて少し武骨な感じがする。 潔癖性ということだけあって、爪は綺麗に短く切り揃えられていた。 そして何より。 (傷がたくさん…) 古いものから、ごく最近できた新しいものまで。 けれど不思議と痛々しいとは思わなかった。 (この手は、たくさんの命を守ってきた手) 守った命を未来に繋ぐことを、決して諦めない手だ。 彼に希望を託した仲間たちが、誰も皆安らかな表情で眠ることをルリは知っている。 無意識の内にその手に触れていた。 つい、と指の形をなぞるように撫でた瞬間。 「…っ…」 「あ…申し訳ありません!」 息を飲んだリヴァイの反応で自分が何をしたのかに気付いたルリは、慌てて触れていた指先から手を離す。 驚いたように目を見張る彼の表情を不謹慎にもかわいいと思ってしまい、二重にルリは狼狽えた。 かわいいってなんだ。 「あ、あの、本当にすみません…!」 「別にいい」 「へ!?」 「お前に触られるのは悪くない」 この部屋に入ってから初めて聞いた彼の言葉は、至極意外なものだった。 今度はルリがきょとんと目を見張る番である。 「…えぇと、それは、どういう…」 「さぁな。テメェで考えろ」 言い捨てて、リヴァイはルリの髪に触れていた手を、するりと彼女の頬に滑らせた。 何が何だか分からないルリはされるがままだ。 「それより、ルリ」 白い肌が徐々に薄い赤に染まっていくのをじっと見つめていたリヴァイは、ゆるゆると彼女の頬を撫でながら口を開いた。 「何か俺に言いたいことがあるんじゃねぇのか」 「…な、なぜお分かりに…」 「馬鹿か。んなもんテメェの顔を見りゃあ分かる」 完全に読まれていたルリはぎくりと身体を竦ませた。 (…ど、どうしよう…!?) 確かに言いたいなと思っていたことはある。 一連の行動の真意も訊ねてみたかったが、そのこと以上に。 リヴァイを見ると、ただ一言。 「言え」 選択の余地はなかった。 「…怒らないでくださいね」 一応前置きした上で、そろそろと指を伸ばす。 もう一度彼の左手に触れると、振り払われないことを確認してから、両手で包み込むように握り締めた。 「わたしは…いつか最期を迎えるなら、あなたの手に看取られたいと。ずっとそう思っていました」 だけどこの手に触れて。 触れられて。 温もりを知ったら、そんなことを考えていた自分はなんて愚かだったのだろうと思った。 「あなたの、この手が好きです。たくさんの命を守ってきたこの手が。だから今度は守らせてください」 力はまだまだ遠く及ばないけれど。 それでも、一人でなにもかもを背負ったまま飛ぶには、きっと限界があるから。 「わたしも、あなたを守りたいんです」 ゆっくりと言葉を結んで、ルリは小さく息を吐き出した。 言い切った。 胸のうちに抱えていたものは全部。 (でも…あぁもう恥ずかしい…!穴があったら入りたい…!) 反応を窺うように、そろりとリヴァイを見上げると。 「…そうか」 穏やかに瞳を細めて。 やわらかに、彼は笑った。 「…っ…!」 思いがけない表情にルリの思考は吹っ飛んだ。 (わっ、笑った…!リヴァイ兵長が笑った…!!) 皮肉げだったり人を小馬鹿にしたような笑みだったりは見たことがあるが、そのどれでもない笑顔は初めてだ。 何だかうっすら感動さえ覚える。 「まぁ、お前に守られるほど弱かねぇが」 リヴァイはぐしゃぐしゃと彼女の髪を掻き混ぜた。 「心掛けは悪くない。せいぜい励め」 「はい!」 そうして、褒められたことが嬉しいのか無邪気に笑うルリの身体を、何気なく引き寄せて。 「…………え?」 ちゅう、と。 わざと音を立てながら彼女の滑らかな額に口付けた。 仕上げに、さっき自分が乱した髪を丁寧に手櫛で整えてやると、トン、と背中を押す。 「もういい。仕事に戻れ」 「え、あ……はい…?」 ルリはパチパチと瞬きながら立ち上がると、狐につままれたような表情を浮かべて部屋を後にした。 それから数分後。 「………ええぇぇぇぇぇ!?」 ようやく自分が何をされたのか理解したルリの絶叫が、人気のない廊下の端から端まで木霊した。 踏み出した感情の行く先 ×
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