「おいなまえ、今日はずいぶん機嫌悪いな?」
「そんなことないですよ。」
放課後、いつも通り化学準備室へ向かった。化学準備室に向かう途中、持っていた飴をがりがり食べた。チョコレートも食べた。
なんだか異常に糖分がほしくなったのだ。
ううん、「なんだか」なんて表現はあんまり合わない。わかっているのだ、こんなに甘いものを口に運ぶ理由が。私は嫉妬をしているのだ。正直手持ちのお菓子が少なくてよかった。持っていたら暴飲暴食するところだった。
そして化学準備室に入ると、今日は部活に行く前に藤真先生が準備室にいてくれていた。今日に限ってなんで、なんて思ってしまったけれどいつも通り接しようと気分を変える。
けれどもやっぱりそれは難しくて、どこか態度に出てしまっていたのか藤真先生に感づかれてしまった。
「なにがそんなことないですよだ。眉間に皺よってんぞ。」
「・・・・問題難しくて。」
「うそつけ、授業中に指したら答えられてたところじゃねぇか。」
ふいうちで指してみたけど、あの時のなまえの面を食らったような顔は面白かったなーと藤真先生はくくっと笑う。
やっぱりあれはわざとだったか、と自分の予想が的中したことに素直に喜べない。授業中、という単語にあの女の子の言葉が同時によみがえってきてしまうからだ。
藤真先生は、私が言うのもなんだけれどかっこいい。かっこいいよ。みんなもそう思ってることなんてわかりきってることだし、今もちゃんとそれは理解しているつもりだ。
けれど、どうしても、自分が子供だから、相手が藤真先生という大人だから。余計に自分に余裕がなくなって、自信がなくなって、それが嫉妬へと変わってしまうのだ。
「一瞬びっくりして昨日覚えたこと忘れかけたんですけどね。」
「でもちゃんと思い出せたんだろ?えらいえらい。その気力がテスト本番も役立つ。」
緊張すると今まで完璧に覚えてたものに不安が出てきて、合ってるはずなのに合ってる気がしなくなってきて、それが酷いと焦って思い出せなくなるんだよな。と藤真先生は他のクラスでやったらしい小テストの採点を始めた。
俺はそういう不安とか全然ない人だけど、俺が高3の時のクラスメイトとかは結構自信喪失してそれが元で覚えてたものも頭から抜けて失敗した奴結構いたんだよ、と続ける。
だから、と藤真先生は採点する手は止めないまま、私を見た。
「本番絶対不安がるなよ。今までの自分の努力を疑うな。」
俺がお前に完璧な化学の基礎叩き込んでやったからな!と持っていたペンを私に向け、白い歯を見せてニコリと笑う。
どくん、と胸が鳴る。
藤真先生は人を鼓舞するのが上手だ。
ちゃんと注意をするけど、でもそのあとそれ以上に私を、生徒を勇気づけてくれる。
それは高校時代の選手兼監督の時に培ったものなんだろうか。そんなことが頭を過る。それと同時にこういうとこが、大好きなんだと再確認してしまう。
さっきまでの、女の子に対する嫉妬をしていた私がなんだか阿呆らしく感じてしまうほどに、藤真先生は絶対的な人を包み込む器で私を包んでくれる。
今まで持っていた醜い感情を、藤真先生に一瞬で流されてしまった。
「・・・ここまで私が化学を覚えられたんです。」
やってやりますよ!とさっきよりも高いテンションで答えれば、そうかそうかと藤真先生は私の頭を撫でてくれる。
優しくて大きな手がとっても気持ちよくて思わず目を細めた。
藤真先生に喜んでもらえるだけで、私は化学を頑張ってよかったって思うんだ。まぁ実際は自分のためにやってるんだけど、それ以上に嬉しくなる。
さて、今日も頑張ろうと、シャーペンを持った時、藤真先生は口を開いた。
「それと・・・、今日お前に言わなきゃいけないことがあるんだ。」
「・・・はい?」
明るかった藤真先生の声が少し低くなる。
こんな声はあの付き合う前以来聞いたことがなかったから思わず身構えてしまう。
「あのな、もう11月も半ばだろ。センターまであと2か月。頑張りどころだよな?」
「そ、うですね。ここが踏ん張りどころじゃないですか。」
「だよな、俺もそう思う。もうすぐ定期テストだしな。」
それで、まあ、あれだ、と藤真先生らしくもない。何か言いたそうにに言葉を濁す。
そして彼の中で何かを決心したのか私を真剣な目つきで見た。
「化学の補習は今日までだ。」
「・・・・へ?」
今日何度目かわからない、どくん、という心臓の鳴る音が耳まで届く。
どうして、なんで、と心と頭の中をぐるぐる回る。
「か、がく、は、私の弱点なんですよ?」
震える唇をどうにか動かして、平常心を保とうとへらりと笑って藤真先生に言ってみる。
藤真先生は私の目を見ながら「わかってる、」と返す。「じゃあ!」と言いたかったけれど、そのまま藤真先生は続けた。
「前に比べたら、断然化学は強くなった。あとはさっき言ったように、反復と自信だけなんだ。」
お前は異常に化学に苦手意識を持ってるだけなんだ。今までできないことだったんだから、そう思うのはしょうがない。でももう俺から見ればこの数か月、毎日の努力でセンターの化学は解けるはずなんだ。今、この現状だったら正直、お前のクラスの中で3本指に入るくらい、化学ができててもおかしくないんだと藤真先生は言う。
「気づけてないだけなんだ。」
「そんな、」
そんなことない、と言えなかった。
気づけてない、なんて言ったら正直ウソになる。だって、最近の藤真先生のプリント、全部、解けるんだ。
夏はあんなにウンウン唸って解いていたモル濃度の計算も、熱化学も、酸化還元も、有機化学も。ちゃんと、解けるようになってきてる。
きっと自分の中で、甘えていたんだ。このままわからないフリをし続けば、藤真先生のそばに、居続けられる、って。
言葉を発さない私の手を、藤真先生はとった。
「それと、俺は12月から化学の特別補講の担当になる。」
「っ・・、それって・・・・。」
「そう。今なまえと一緒に勉強している放課後のこの時間なんだ。」
だからもう、お前だけの勉強を見てやることはできない、と藤真先生は少しだけ困ったように眉を下げて笑った。
どうしてそんな、顔をするの。
しょうがない、わかってくれって、いう顔をしないで。
私はまだ、子供だから。そんな物わかり良くない。今まで藤真先生は私のことを「物わかり良すぎ」って何度か言ってくれたけど、そんなことない。
我が儘な、一般的な女の子なんだよ。
「藤真先生は、夏に私がみんなと一緒に、補講しましょうって言った時、面倒くさいから嫌だ、って、言ってたじゃないですか。」
「ん・・・、まぁ、そうなんだけど。」
「私の補習だけを、見てくれるって、言ったじゃないですか。」
「なまえ・・・?」
「藤真先生は・・・!」
私の化学は絶対成功させてやるって、言ったじゃないですか!と叫びそうになったのだけは、耐えた。
自分で藤真先生は、と大きな声で言ったおかげで、少し理性を取り戻せた。
藤真先生をちらりと見れば、困ったように私を見ている。
ちがう、困らせたいわけじゃない。そんな顔させたいわけじゃない。
ただの、私の独りよがりなんだ。ほかの人に、目を向けてほしくないだけで。私だけを、見てほしくて。
それと同時に今日の化学の授業の時のことを思い出してしまう。
きっとあの子も、藤真先生の特別補講を受けるだろう。ほかの女の子も、きっと、藤真先生が担当の先生だと知ったら、きっと、受けるに違いない。
藤真先生はきっとみんなに分け隔てなく、優しく教えてあげるに違いない。
私だけの、特権だったのに。
どうして、こんなにわがままになってしまったんだろう。こんな気持ち、捨ててしまいたいのに、捨てるどころか湧き出てきてしまう。醜い気持ちだけが、ぐるぐると自分の中を巡っていく。
一応、ちゃんと付き合っているということになっているんだから、別れるわけじゃない、ただこの時間が無くなるだけだって、頭の中で理解ができても、心がついて行ってくれない。この時間だけが、私を毎日頑張らせてくれていたのに。
「なまえ。もう決まったことだ。さすがに俺でも上から言われて決められたことにノーとは言えない。俺との補習は、今日までだ。」
だから、明日からは他の教科も今まで以上に、と藤真先生が言ったところでガタン!と立ち上がってしまった。
藤真先生の私をたしなめるような、叱るようなちょっと強い声に、もう我慢できなくなってしまった。
もうだめだ、耐えられない。
涙が溢れてきてしまう。
そんな私を見て藤真先生は固まっていた。
「お世話に、なりました。」
ただその一言だけを、藤真先生に言って、すぐそばにあった自分のカバンを掴んで、化学準備室から出た。
消えた時間 (子供の嫉妬は、醜い)
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