2021-2022

雨。細く、音もなく降る雨に山がけぶっている。窓を閉めているにもかかわらず、縁側を歩くと裸足の足の裏が湿気った音を立てるのが少し不快だった。
二階にある自室の窓から門の向こう、水田に挟まれるている細い一本道にポツンと立っているビニール傘が見える。白い横顔が、傘から透けていた。いつもであれば、窓際にいる私を認めるやいなや能天気がすぎる笑顔を浮かべて大きく手を振るというのに、nameはじっとどこかに目を凝らしてその横顔を私に晒している。
届きそうで届かない。見えるようで曖昧にしか見えない。どことなくもどかしくて、私は目を細める。窓ガラスを雨が伝う。緩やかに蛇行する透明な雨粒を指先でなぞり、彼女がはやくこちらを向けばいいのにと思う。

「ツバメの子どもが餌をとる練習をしていたよ」

チャイムも鳴らさず、ノックもせず私の部屋に入ってきたnameの髪は湿気で膨らみ、いささかまとまりに欠けていた。

「……そうか」

私が一切の興味を示していないにも関わらず、nameは「三成にも見せたげる」と私の手をグイグイと引き、私に傘を持たせ左隣に滑り込むと、互いの左右の肩が濡れるのも厭わず歩いてゆく。私の兄の長靴を失敬したせいで、歩くたびにサイズの大きすぎる黒い長靴がガボガボと音を立てた。
雨に濡れる燕尾を入梅のひんやりする空気を切るように上下させ、くちばしを着けた水面にわずかな波紋を残して仔ツバメは低空で飛行している。何度も繰り返すのを、nameは飽きることなく眺めている。
ツバメだけでなく、他の鳥たちも騒がしく声をあげている。それらの名前を私は知らない。鳥たち、と一括にしてしまう私にnameは個別につけられた名を教えるが、やはり私には鳥たちでしかない。賑やかで、長閑な音を立てる生き物。それはどこかnameに似ている。伸びやかで、自由だ。勝手に入ってきて庭先で賑々しく声をあげていたかと思えば、どこかにさっと飛んでいってしまうスズメのようにきままな放埒さ。
私たちの足元を、ちいさな蛙が横切って跳んでいった。雨は止む気配もなく降り続いている。濡れたシャツが肌に張り付くのが気持ちが悪い。私が身動ぎしたのを合図のようにして、nameがゆっくりとこちらを見上げる。彼女の濡れた左肩。下着の紐が透けていた。

「風邪をひくぞ」

白いTシャツに肌色をにじませているnameは、そうだね、と肯いた。家に戻るさなか、左からちいさなくしゃみがひとつ聞こえた。
思いのほか我々の服は濡れていた。「なんか着るもの借りるね」と、伺いを立てるわけではなく既決事項として私に伝えると、nameは勝手に箪笥をあさり始める。

「あっち向いてて」

「貴様には恥じらいというものがないのか」

「ある」

ある、ときた。ふざけているのだ。この女は。人のものを勝手に使い、堂々と同じ部屋で着替えをしておきながら服と部屋の持ち主であるこの私に向かってあっちを向いていろなどとぬかす。押して倒す気にもならぬと思いながらも、雨に濡れた肩の小さな丸みを思い出して私は唇をやんわりと噛みしめる。
「はい、三成のやつ」とグレーのシャツを投げてよこすので溜息すら出ない。nameに言われるまでもなくこれは私の服なのだ。新しいシャツに片袖を通した私は背後から視線を感じ振り返る。じっと私の背を眺めているnameがいる。その目はさっきツバメを見ていたそれと同じである。ツバメもさぞ居心地の悪かったことであろう。
家族が出払っているため家はしんとしていた。雨に包まれて静けさが際立っている。私は、閉じ込められていると感じる。閉じ込められているのか、閉じ込められたいのか。それとも閉じ込めておきたいのか。どこに、なにを、誰を。
開け放った窓枠に組んだ腕を乗せ、nameは外を眺めている。ここからの景色なんて見飽きるほど見ているだろうに。ベッドに腰掛けた私もまた、そんなnameの背中を見飽きるほど見ているというのに不思議と飽きることはなく、記憶の中のnameといま自分の目にしているnameとを重ね合わせながらぼんやりと、祖父の撮影した古い8ミリビデオを見るようにして眺めている。
四角い窓の外の世界だけが変わってゆく。私たちだけが取り残される。木造の家の、湿ったにおい。濡れた田畑の土のにおい。瓦屋根の雨垂れの音。新緑の山はいつしか乳白色の中に沈んでいる。

「あ、左近があとで用があるから来るって言ってた」

ふいにnameが振り返る。

「何時ごろだ」

訊ねるとnameは視線を右上に向け「うーん……」と言ってカーテンの裾をいじる。どうせ忘れたのであろうという私の予想は無論当たり、「お昼、ぐらい?」と問い返されるので「知らん」と答え、私は時計に目をやった。10時半。おおかたうちに昼食をたかりにくるのだろう。たかりに、などと言いつつも、あやつの賑やかさを嫌いになれない。
左近は、時間の淀みに取り残された私とnameに流れ込む新鮮な空気のような存在だった。唐突にあらわれ、光を伴い滞った空気を撹拌する。私とnameは左近という存在を介して、自分たちが世界とかろうじて繋がっていることを思い出す。
カラカラと窓の閉まる音がして、カーテンが閉められる。膝をついてにじりよるnameが私に向かって右手を伸ばした。私はnameに引き寄せられる。雨音が強くなり、雨のにおいがいっそう濃くなる。腕の中のnameの首筋に鼻を寄せると、彼女のシャンプーと私の部屋の混ざった香りが鼻孔をかすめる。部屋の中にいるというのに、雨に濡れながらふたりで傘に入っていた場所にいるような気がする。唇が重なり、舌が絡まる。思考は深い霧に閉ざされる。
閉め切った窓の外から雨粒が地面を叩く激しい音が聞こえてくる。nameの細い啼き声など容易くかき消されてしまうほどの雨足だった。nameが私の背中に爪を立てる。強張った身体にくちびるをつけ舌先で舐めあげると、nameは切ない声で喉の奥から私の名を呼んだ。
27度に設定してあるエアコンを暑く感じるようになったころ、外が静かになっていることに私はようやく気がつく。
窓際の壁に私とnameは並んでもたれる。下着をつけないまま、私のシャツを頭からかぶっただけの格好で、nameは私の肩に頭を預けている。やんわりと指を絡め、しとしとと降る雨音をふたりで聞いた。
11時47分。カーテンの隙間から、にわかに日が差し込む。nameが眩しそうに目を細め、カーテンを開けた。
nameの横顔。少し下がり気味の眉、ちょこんとした鼻、やわらかな曲線を描く頬。彼女の肉体のどの部分においても、いまや見ずとも克明に思い描くことができるのに、私はいつだって、いつまでも、nameを視界にとどめおかずにはいられない。まるでそうでもしておかなければ、するりと、指の間からこぼれ落ちてしまうかもしれないという不安に駆られるのだ。ひどく呆気なくnameを失ってしまいそうなたやすい喪失感が、私の中には常として在るのだった。

「あ、虹だ」

nameの声につられて窓の外を見ると、重たい雲とも霧ともつかない靄がわだかまる山々の端から端を繋ぐようにしてきれいな虹がかかっていた。今しがたまでの雨など嘘のように、薄曇りの空を強い太陽の光が照らしている。強い雨によって洗われた空気は透明で、景色は妙にはっきりとした陰影をもっていた。
虹が消えると、nameはきゅうりが食べたいと言った。階段を降り、台所に寄って麦茶を飲む。ごくごくと喉の鳴る音が聞こえる。グラスを空にしたnameは私の方を見て「おいしいね」と歯を見せた。よく冷えた麦茶はたしかにおいしかった。
私たちは畑に出る。下着をつけたはいいが、私のTシャツをワンピースのように着て素足に大きすぎる長靴をはいたnameは、無防備であどけなかった。nameがつけた足跡に、まだ鳴くこともできないちいさな青蛙が飛び込んでくる。
三成、三成、となんの疑いもなくnameは私にまとわりつく。生まれたときからの幼馴染という関係にとどまらない、説明のできない離れがたさが私とnameの間にはある。手の届かない奥深い場所で二本の糸がもつれあっているような、そんな。そしてそれは複雑に難解に絡まっている。宿命、という言葉を思い浮かべざるを得ない。
馬鹿な、と一笑に付してしまうにはあまりにも切実で、狂おしかった。現実主義である自分の観念とは掛け離れた現実に私は永らく悩まされている。
育ちすぎたきゅうりを三本手にし、nameは濡れた手をシャツの裾で拭く。

「人のシャツで手を拭くな」

「ごめんね。あと、ナスもらってもいい?お母さんにもらってくるように言われてるの」

まったく気持ちのこもっていない謝罪に私が眉間に皺を寄せるのを見てnameが笑う。笑って、それから「好きだよ」と言う。私は彼女を許すしかなくなってしまう。
トマトとナスを腕に抱えた私の前に身を乗り出すようにしてnameが玄関扉を開けた。ふわ、と彼女から香ったあまいにおいに突如胸を掻き立てられる。投げるように置いたせいで、トマトが上がり框にぶつかりたたきの上を転がった。ムシムシするね、と手の甲で髪の生え際を抑えるnameの腕を取る。口づけて押し倒そうとしたはずなのに、のんびりとした眼差しを向けられ私は動けない。先程の情事のせいで赤くなった眼が、やわらかな輪郭とかたどられた微笑にひどく不釣り合いで、そして不埒だった。
遠くから聞こえてくる原付バイクの音に、nameが私から視線を外す。

「そうめん茹でよう」

「……あぁ」

「ミョウガは多めで、あと、ごまとショウガも乗せたいな」

素麺の付け合わせのついでのように、nameは両手にきゅうりを持ったまま私の胴に腕を回してくる。nameの頭越しに、たたきに転がるトマトが妙に赤々と光っていた。

「ちゃーす。おじゃましゃーす!」

むっとした空気とともに左近が姿を見せる。そのわずか前に、私たちは身体とくちびるを離していた。
「うわっなんスかnameさんそのカッコ、エロくないスか?ねぇ?三成サマ?あっ、来る途中スーパー寄って串カツと唐揚げ買ってきましたよ!昼のタイムセールで安かったんスよ、ラッキー!アパートのドアに枝豆掛かってたんでソレも持ってきたから茹でていいスよね」とひと息で喋ると左近はてんでに転がっているトマトとナスを拾い上げ、ニッと真夏のような顔をして笑うのだった。

【喪失を閉じ込める部屋】
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