2021-2022

今晩から未明にかけて爆弾低気圧がこの地域を襲うでしょう、という声がテレビの中から聞こえてくる。空は鈍色の厚ぼったい雲で隙間なく覆われていた。暖房をいれているのにワンルームのアパートはいつまでたってもあたたまらない。帰宅したのは今日も21時を過ぎていた。痛いほどに冷たくなった足先に我慢ができず、まだ半分ほどしかお湯の溜まっていないであろうバスルームに駆けこんだ。
就職のために地元を離れて一年、自分を取り巻く何もかもがうまくいっていなかった。朝が来るのが怖かった。人に会うのが怖かった。部屋から出るのが怖かった。だからといって部屋にいれば安心というわけでもなく、小さな部屋の閉塞感に息苦しさを覚えるのだった。この街に、私の居場所はどこにもなかった。
気休めに入れたリラックス効果を謳う入浴剤もまったく効果を発揮していない。疲れ果てた身体をバスタブに沈めていると、このまま溶けて消えてしまえそうな気がして頭のてっぺんまで沈んでみる。けれど、ただ息が苦しくなるだけだったし、濡れた髪を貼りつけてどんよりしている自分の顔が鏡に映っているのを見たらよけいに虚しくなってしまった。
自分がひどく惨めで、悲しくなる。努力しているのに空回りばかりだ。むりやり笑顔を作っているせいで頬がいつもこわばっているような気がした。あぁ、と息を吐いて顔を両手で覆う。私は作り出した暗闇によって世界を強制的に遮断する。
夜、浅い眠りの中でいつも見るのは故郷の雪景色だった。一面を白銀に染めてなお降り続ける雪。私の隣から数メートル先まで点々と続く足跡。それを辿った先で、頬を赤くした時重が私に向かって手を振っている。
どこもかしこも雪に埋め尽くされているのに、空はあんなにも重たい色をしているのに、ひどく閉鎖的な場所だったのに、不思議と閉塞感は微塵も感じなかった。
夜とも朝ともつかない紺色の時間に目が覚める。私は冷たい窓ガラスに額を押し当て、夜の向こうに目を凝らす。少しでもいい、夢の残りに触れたかった。
ここには時重がいないから。だから私は息苦しいのだろうか。だからなにもかもがうまくいかないのだろうか。「僕のせいにしないでよね」と、彼ならそう言うにちがいない。
もうずっと時重の声を聞いていなかった。電話をかけたとして、なにを話せばいいのかわからない。これまで彼としてきた話なんて、とるに足らないものばかりだったから。あらためて電話なんて、と携帯電話を手にしても、いつも最後まで「通話」の文字に触れられないままだった。
天気予報のとおり、暁の空にちらちらと白いものが舞いはじめる。私は息を詰めてそれを眺めていた。窓ガラスが息で白く曇る。故郷のしんと静まり返った雪の朝を思い出す。
畑でとれた大根を洗った、つめたく冷え切った時重の手。寒さにかさついた頬を赤らめた彼が、私の手を取り歩いて行った先は小学校だっただろうか、中学校だっただろうか。記憶はぼんやりとしたもやの向こう側にあってうまく思いだすことができなかった。もうずっと前のことのように思える。いっそ、前世かと思えるほどに遠い。
私が故郷を出たのは時重へ反発心だった。私よりも少し前に進学で町を後にし、そのまま就職した智春と同じように、時重がそばにいなくても私はちゃんとやっていけるんだということを他の誰でもない自分に証明したかった。
閉鎖的な土地を出て自由に生きられると思っていたのに、私はいま、この街に閉じ込められている。ちゃんとやる、ということがいったい何を指すのかもわからないまま。
ベランダに出て空を仰ぐ。まるでスノードームの中にいるみたいだった。透明なガラス、歪んだ景色、笑顔を貼りつけた雪だるま、降り続ける雪。のばした指先にひとひらの雪が触れる。繊細な結晶はまたたくまに溶け落ち、ほんのちいさな、ぽっちりとした水滴に変わる。
次の瞬間、私の両目からは大粒の涙があふれていた。
背中を押されるように部屋に戻った私は、気が付けば携帯電話を耳に押し当てていた。「もしもし」という時重の声で我に返る。なにを言えばいいかわからず、慌てて「ごめん」と呟いて電話を切ろうとすると、

「切るな!」

と、時重の大きな声が、まだたっぷりと夜の闇が残っている部屋の空気を震わせた。私はうろたえる。耳の奥がびりびりと痺れていた。

「……時重、ちがうの、あのね、」

「違わないから、ちゃんと言いなよ」

「時重の声が、聞きたかったの」

「そっか」

それっきり時重はなにも言わない。私もそれ以上言葉を口にしたらしゃくりあげてしまいそうで、泣いていることを悟られないよう息をひそめて唇を引き結んでいた。
私たちは、ノイズにかたどられた静寂をひっそりと共有し合う。

「そっちは雪降ってる?」

どれだけの空白があっただろう。ポツリと私は訊ねる。

「降ってる。nameのほうは?」

「さっき、降ってきたよ。スノードームみたいだなって思いながら見てた」

「そういえばさ、お前、ずっと前僕にスノードーム割られて泣いてたよね」

電話の向こうで含み笑いのような気配がする。

「あー、あったね、そんなこと」

小学生の時、同じクラスの男の子にお土産でもらったスノードームがあまりにも綺麗で、私は時重にも見せようと学校が終わるやいなや彼の家に走った。ほら、きれいでしょ、と息を切らした後ろ手に持っていたスノードームを、蝶を捕まえた時のように手のひらで覆い時重の目の前に差し出す。彼の視線がそこに注がれたのを確認すると、かぶせていた右手をぱっと外し、手のひらに乗せたスノードームを意気揚々と披露した。
眉ひとつ動かさず、無感動にそれを取り上げた時重は、頭上にかかげたそのままの流れでスノードームをブロック塀に叩き付けたのだった。
もっと鈍い音がすると思ったのに、まるで水風船が割れるような薄いガラスが割れるような音をたててスノードームは砕け散った。振りかぶる瞬間、ガラスの曲面と、浮遊する無数の輝きは太陽の光を受けて強い光を放った。それらの最後の輝きを私はいまでも克明に記憶している。記憶というより、記憶の染みとなって私の内側に焼き付いている。
呆然としている私を見る時重はどこか得意げで、なんなら当然のことをしたまでとでもいうような表情を浮かべていた。小さな世界の中でちらちらと降る雪の綺麗なさまを時重にも見てほしかっただけの私は、どうして彼がそのような真似をしたのか理解できずにわんわん泣いたのだった。

「なんかさ、ムカついたんだよね」

「……どういうこと?」

「お前が男に物もらって喜んでるのに。あと、スノードーム自体。だって、雪なんか空からどれだけでも降ってくるのに、どうしてわざわざ降らせるのさ。しかもあんなちっぽけな容れ物の中で」

だから、壊した。そう言う声はやっぱり一ミリも悪びれていなくて、あの時泣いたかわりに今度は笑ってしまう。

「時重らしいね」

「……お前さ、明日っていうか、今日は休みなの?」

「うん」

「ふーん」

「ごめんね、変な時間に電話して」

そういえば、私、さっき笑ってた。意識することもなく、笑ってた。
そっと頬に触れる。やわらかであたたかかな私の頬は、乾いた涙にどことなく突っ張っていた。でも全然嫌じゃない。
こみ上げてくる笑みに唇が綻ぶのがわかる。

「別に。もう起きるところだったし」

時計は午前4時にさしかかろうとしていた。時重はこれから畑に出るのだろうか。軒先のつらら、霜柱を踏む靴底の感触、野菜を入れるオレンジ色のプラスチック製の箱、軽トラの吐きだすもうもうとした排気ガス。なにげない日常の片隅の記憶が、私の息を吹き返す。深く息を吸って吐いた。大丈夫。まだ頑張れる。心がほんの少しだけ軽くなったような気がした。

「じゃあ、私はもうちょっと寝るから。おやすみ」

そう言って、宇佐美の返事を待つことなく電話を切った。窓の外では相変わらず雪が舞っていた。

うとうとと、眠りの縁を漂うような眠り方をしていた私は玄関のチャイムの音で目を覚ます。もうすっかり太陽は昇っていた。明け方の雪は嘘みたいに晴れ渡っている。爆弾低気圧というわりにひどい雪にならなくてよかったと安堵しつつ、来訪者がなにかの勧誘かもしれないと息をひそめた。「お届け物でーす」とどことなく聞き覚えのある声がするので、警戒しつつ玄関に向かいそろそろとドアスコープに右目をあてる。

「……うそ、でしょ」

そこには、まごうことなき時重本人の姿があった。おぼつかない指先で急いで鍵を開ける。チェーンを外す指が震えてもたつくのがもどかしかった。開いた扉から流れ込んでくる都会の朝の空気に混じって、時重と、そして土と野菜の懐かしいにおいが私を包みこむ。

「おはよ」

目を細めて私を見下ろしている時重は、驚きのあまり言葉を失っている私を玄関に置き去りにして部屋に入ったかと思えば、私の鞄とアパートの鍵を手にして戻ってきた。立ち尽くす私をよそに施錠を済ませると、私の手をとってアパートの階段を降り目の前の道路に停めてある車(「これって菊田さんの車じゃないの?」「うん。パクってきた」)の助手席に私を放り込んだ。

「まって、ねぇ、時重、ちょっと」

「一年待ったからもう待たない。はい、しゅっぱーつ!」

わけもわかわず、それでも反射的に私はシートベルトを締める。思い切り踏み込んだアクセルが唸る。それを合図に私のまわりを分厚く覆っていた重苦しい空気がまっぷたつに割れ、もやのかかっていた思考が透き通ってゆく。車はぐんぐんと速度をあげ、速度が増すたびに私の心が軽くなる。

「帰ったら畑手伝えよ」

視線を前に向けたまま時重が言う。その口元は、いつかと同じ角度できゅっと持ち上がっている。何も言わずにいると、助手席の窓を全開にされたので私は「手伝う!手伝うから窓しめて、寒い!」と時重の腕を掴む。あはは、と彼が笑うのでつられて私も笑う。笑って、笑って、涙が出るほど笑った。頬のこわばりなんてもうどこにもない。寒いのに不思議と指先はあたたかかった。
遠い昔にスノードームを叩き割ったのと同じ手がハンドルを握っている。男の人の手になったけれど、色の白くてきめの細かい肌は昔となにも変わっていなかった。そこに私が触れたら何かが変わるだろうか。ちがう、きっともう、変わりはじめている。
鼻唄をうたっている時重の横顔を眺めながら、その向こう側で後ろに流れてゆくビルの群れに私は唇だけで別れを告げる。

【ダイヤモンドの細胞核】

(冬にツイッターにあげたものを加筆修正)
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