2021-2022

「みつけた、」

背後から吹きてきた風に包まれるように私をつかまえる二本の腕。まだ冷たいけれど、抑えきれない命の芽吹きの予兆に膨らんだ風に混じって、懐かしい香りが鼻を掠める。まっすぐ前を向いたまま「カヲル」と私が名前を呼ぶと「うん、僕だよ」と甘い声が耳をくすぐった。
遊歩道の片隅で私とカヲルは再会した。出会いの予兆なんてどこにもなかった。人ならざるものとしての特権はきれいさっぱり失われていて、驚くぐらい私はただの人間だった。
緩やかに曲がりくねった遊歩道の脇には公園があって、小さな子どもたちが賑やかに走り回っている。そのうちのふたりが私たちの方を指さして何かを言い合っているのが見えた。

「恥ずかしいよ。離して」

そう言ってカヲルの手に触れると、彼は体温の余韻を残して身体を離す。それからたっぷりと私の顔を眺めた後、私の手を取り歩きだした。

「僕がきみに会いたいと願ったから、きっとこうしてまた会うことができたんだ」

「……彼は?」

目を伏せて問うと、カヲルは

「碇くんかい?彼にならもう会ったよ。おとといも部屋に遊びに行ってきた」

と忍び笑いをするように答えた。あまりにも普通のことのように彼が言うので、私はそれ以上詮索するのはやめにした。きっと、彼らは彼らなりに新しい世界を生きているのだ。だから「今度nameも一緒に来るかい?」というカヲルの申し出は曖昧な返事で濁しておいた。男同士の友情、とりわけカヲルと碇シンジの間にあるどこか秘密めいた関係に、私は組しようとは思わないのだった。
会話のテンポも声の調子も、まるで昨日も会って話していたような気安さではあるものの、カヲルとの予期せぬ再会に胸の中では様々な感情が渦を巻きはちきれそうになっていた。

「背、伸びたのね」

前は私より少し大きいだけだったのに、今ではずっと上の方に顔がある。見あげなければ視線が合わなくて、首を上げる動作がぎこちなくなった。慣れない角度になんとなく目線を下げると、カヲルの白いハイカットのスニーカーが目に入った。使い込まれているけれど、よく手入れされていて、彼の足に馴染んでいた。

「nameはあまり変わっていないね」

「少しは伸びたよ。きっと、元々そんなに背が大きくならない質なのね」

たくさん話したいことはあったはずなのに、何ひとつとして思い浮かばない。雲の上を歩いているような心許なさに、私は手を握りしめた。すると、握られた私の拳をカヲルの手がやんわりと包み、解いてゆく。ごく自然に指が絡められ、右上を見上げるとカヲルが静かに私を見下ろしていた。
首筋が、耳が熱くなる。ぐちゃぐちゃになったカセットのテープみたいに言葉と感情が絡まって、縺れ合う。解いて、彼に伝えるための言葉を順番に再生したいのに、指先はうまく動かない。それどころかどんどんテープはひどい具合になってゆく。

「カヲル、あのね……、」

ほとんど泣きそうになりながらなんとか口にしたのは、幾度となく呼んだ名前だった。でもその後はやっぱり続かなくて。カヲルは、口を噤んでしまった私のもう片方の手を取る。

「ねぇname、きみと行きたきところが沢山あるんだ」

本当に、沢山あるんだよ。そう言った彼の赤い瞳が私を映していた。

「私、カヲルに言いたいことが沢山あるの」

「僕もだ」

ふわりと身体が包まれたと思ったら、息が止まるほどの抱擁を受ける。

「でも、今はまだうまく言えない」

「いつまでだって待つさ」

カヲルの背に腕を回す。コートの向こう側にある、彼の肉体を思う。どこにも代わりなんてない、彼だけの身体と魂。目の奥が熱くなり、私はまぶたを閉じた。
遊歩道を抜けるとちいさな川が流れていて、その両脇には桜並木が続いている。色づいた蕾は大きく膨らみ、気の早い枝はすでにちらほらと花をつけている。しばらくもすれば水面は桜色に染まるのだろう。繋いだ手を揺らしながら私たちは歩いた。植込みには真っ白な花をつけた雪柳の枝が溢れんばかりにこうべを垂れている。向かいからやって来た自転車を避けた私の手の甲に、やわらかに花の房が触れた。
桜並木を抜けると小川は溜池へと注ぎ込んでいた。午後の日差しに水面のさざなみは四方八方に銀色の光線を細かに放ち、音もなく輝ていた。厳かな光景に私は目を細める。きらめきの十字架。そんな言葉を思い浮かべながら。
溜池のすぐ脇にある三階建てのアパートがカヲルの住まいだった。案外ものが多い部屋の隅に置かれたソファに座って冷たい緑茶を飲む。壁にかけられたおもちゃのダーツ、積み上げられた本の山、椅子の背にかけられたコート。どれも私の目には新鮮に映った。けれど部屋に満ちているのは、身体の芯にまで染みついている懐かしいカヲルのにおい。エアコンがかかっているわけでもないのに日当たりのいいこの部屋は私を心地いい微睡へといざなう。
部屋着に着替えて戻ってきたカヲルは、うとうとしている私の髪を耳にかけると、私の顔をじっと見つめた。瞳の中にいるいくつもの私の気配を探っているようだった。目が離せずに、けれど恥ずかしさに私が目を伏せると、伸びてきたカヲルの手に上を向かされる。そうして、唇を塞がれた。
私はカヲルの背中に腕を回す。彼が視線でするのと同じように、ここに至るまでに通りすぎてきたいくつものカヲルの気配を、背中に彷徨わせる指先で私は探す。今こうするために、私たちは何度も何度も繰り返してきたのだろうか。明らかにこれまでとは違う世界でふたたび出会った私たちはもう、筋書きのない人生を歩んでいかなければならない。ささやかな不安はあるけれど、抱き合っているうちに身体の奥から膨れ上がってくる喜びと感動に私は圧倒される。
どうしよう。こんなのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。不安の混じる高揚感に身体中の水分が振動しているのがわかった。
おだやかな笑みのままカヲルは何度となくキスを繰り返す。唇が触れるだけのキスなのに、私は息の仕方が分からなくなる。これまで感じていた、自分の身体なのに借り物であるよかのような違和感とはまた別の、不思議な浮遊感に意識が包まれてゆく。
気が付けばソファに押し倒されていて、カヲルの肩越しに天井が見えた。閉めきっていないレースのカーテンの隙間から、陽の光がひと筋天井に伸びている。
途方もない幸福に、身体がばらばらになってしまいそうだった。これまで何度もすり抜けていった、手に入るはずのなかった終止符の先の未来において、カヲルの腕の中で、カヲルの体温を感じているという現実にうちのめされる。背丈は伸びたのに、声はほとんど変わらないカヲルの唇からはとめどなく甘い言葉が紡がれ続け、私の中を満たしてゆく。幸福と彼の言葉で私の身体はいまやはちきれんばかりになっていた。

「name、好きだよ。どうしようもないぐらいにきみが好きだ」

目の際を赤くして、切ない声で言ったカヲルが私の上唇をやさしく食む。

「……待っ、て」

私はカヲルの肩を掴んで遠ざけていた。拒否されたことに少し驚いたような表情を浮かべてカヲルは私を見る。

「……ごめん、いやだった?」

「違うの。今はだめなの。私の中に、これ以上の幸せが入らないの。これ以上したら、私、壊れちゃう。だから、カヲル、もう少し待って欲しいの」

頬を伝う涙を拭おうとする手をカヲルにつかまれる。目じりに寄せられる唇。顔をくすぐるアッシュグレイの髪に指を通すと、雪柳の花と同じやわらかさが私の指を包んだ。

「うん、待つよ。きみの準備が整うまで、僕は待つ」

額に音をたててキスをすると、カヲルは私を腕の中に閉じ込めた。「そのかわり、もうどこにも行かないって約束してくれるかい」星の瞬きのように赤い瞳をきらりと光らせ、カヲルは鼻先が触れ合う距離で私に訊ねた。

「約束する」

カヲルのなだらかな肩の輪郭に頬をつけ私は目を閉じる。どこにも行かないんじゃなくて、もうどこにも行けないんだ、と思った。どこまでも幸福な呪縛。自ら望んで囚われる。彼の腕の中に、彼の人生に。
燦々と太陽の光が降り注ぐ部屋で、私たちは始まりの合図のキスをする。

【それはただの記憶であるのに】

それはただの記憶であるのに、僕の脳裏にこびり付いてとれやしない。さよならの記憶ばかりが鮮烈で、だから僕は今回ばかりはきみと離れることがないよう腕の中に閉じ込めて、出してなんかやらないんだ。もう、きみと僕とがひとつになれないのはわかっている。それは喜ばしくもあるけれど、ひどくもどかしい。きみの中に僕が入ったとしても僕たちの境界線が消えることはない。きっと僕は切実にきみのことを求めるのだろうね。きみとどこまでも重なり合うために。僕はきみをいつまでだって待つけれど、僕の自制心が喰い荒らされてしまう前にどうか、僕とひとつになって欲しいんだ。
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