2021-2022

まぶたの裏の闇がゆっくりとうすらいでゆく。僕は右手でその闇を押し上げる。まるで空を押し上げるように。あるいは、水中から海面に向かって水をかき分けるように。溢れるほどの光の粒が銀の河となって漆黒に横たわっている。
瞬きをした僕は、ぐるりと円を描くように置かれている箱の中心を見る。
そうするべきと、僕の身体は知っている。
中心で膝を抱えている少女は、僕と目が合うとやわらかに微笑んだ。

【銀河の幕と声無きアンコール】

幾度となく繰り返してきた出会いも、今回が最後になるということを私は知っている。
海洋研究所の薄暗い通路を抜け、大水槽の前に私たちは立つ。頭上から注ぐ日の光は、水色に透き通った水槽と、水色に染まった私たちに不規則な波紋を投げかける。水中で無数にきらめく虹色の輝き。銀色の鱗。水槽の底に斜めに差し込む光の帯。
私はカヲルの手をそっと握る。ガラス越しに視線がぶつかり、カヲルは淡く笑む。水色の中に浮かび上がる彼の赤い瞳から、私は目が離せなかった。絡む指に力が入り、私たちはふたり、いつまでも魚影を眺める。
どこまでも完璧で、どこまでも透明で、どこまでも悲しい場所。設えてあるから、落ち着くと感じるのだ。きっと。
調和と秩序を乱すものはここにない。
目を伏せてガラスに手を伸ばすと、指先に硬い感触が伝わってくる。ひんやりする、と言うと、カヲルも私の真似をしてガラスに触れた。「うん、ひんやりするね」そう言ったカヲルの指も、ひんやりしてる。
屋上で、生臭い潮風に吹かれながら、黒い文字でナンバリングされたブロックに寄せては返す波が作り出す細かな泡に目を凝らす。
カヲルの髪が風に揺れている。私の髪もまた、おなじように。指を通すと潮風でどことなくいつもと感じが違うのが楽しくて、何度も、何度も、私はカヲルの髪を梳く。忘れたくない、と願いながら。

「あなたを幸せにしてあげられるのが私だったらよかったのに、って、ずっと思っていた」

「どうしてそんなことを言うんだい。僕は幸せさ。きみだけじゃないか、僕のことをずっと覚えていてくれているのは。それだけでじゅうぶんだよ」

目を細めると、カヲルは私の頬を撫でた。
覚えていられるのだろうか。こんなにも忘れたくないと願っているのに、きっと忘れてしまうのだという確信めいた不安の方が大きくて、「そうね」と言ったけれど、海風に震えた言葉の輪郭はひどく曖昧なものだった。
鴎がひときわ大きく鳴いた。
それと同時に、あの箱を開けた時の手触りや重みが手のひらに蘇る。もう、決して触れることのないあの箱を今では懐かしく思う。あの時、私が初めて流したひと粒の涙は星になった。

「カヲルがどこにいても、私はあなたを見つけるわ。あなたが碇シンジと出会うように、どんな世界でだって、必ず」

「泣いているんだね」

「そう。泣いているの」

重力に従って、涙は頬を滑り落ち顎を伝う。私を抱き締めるカヲルのシャツに、涙が吸い込まれてゆく。あたたかく湿るそこは海のにおいがした。

【大樹より零れ落ちた一滴は大気を彷徨う】

渚に横たわる私は、寄せては引く波によって浸食されてゆく。砂浜に打ち上げられ、また水中に引き戻される。強烈な夕日が、水面に透ける光が、失われつつある私の身体の輪郭を細い線で縁どる。
水平線を眺めるカヲルに小さな影がひとつ近付いてゆく。振り返るカヲルの、心からの笑み。そうして、繋がれるふたりの手。
私は目を閉じる。波音に包まれ、全てが泡になる。

【渚にて、大樹より零れ落ちた一滴は海に還る】

駅を出た僕はふたりに手を振り海に続く道を下ってゆく。
真冬の海は静かな光を湛えている。潮風のにおいに乗ってかすかな波音が聞こえてくる。波間を割る漁船。犬を散歩させている人。打ち捨てられて錆まみれのボート。
人気のない海岸にぽつんと、膝を抱えている背中がある。
僕はその背中を知っている。その背中が僕を待っていることも知っている。
きみはいつだって、僕を待つ役なんだね。
どこか他人の記憶をなぞるように、心の果てにある景色を思い出しながら僕はひとり小さく笑った。
知らず知らず駆け足になっている。幸せに向かってゆくのだから仕方ないじゃないか。まだ届くような距離でもないのに僕は手を伸ばさずにはいられない。

【Fine -Allegro- 】

肩にかかった髪をくぐって視界にあらわれる白い手。背中に感じる体温と重み。「name、」耳元で囁かれる私の名。骨ばっているのに白く滑らかな両の手に、自分の両手を重ねる。皮膚など無いかのようにお互いを行き交う熱。

「おまたせ。……あぁ、また泣いてる」

「ねぇ、涙って、あたたかいのよ」

カヲルの背にもたれ泣く私の頬に、彼は自分の頬を寄せて「うん、本当だ」と言った。

「あの時と同じだ。なまあたたくて、少しむっとしていて、とても不思議だった」

私を抱き竦める腕にしがみ付く。涙はとめどなく溢れ、滴っては足元の砂に吸い込まれる。
これが本当の最後。私たちの最後の出会い。遠い記憶よりもやや逞しくなった身体にすっぽりと包まれ、私は全身でカヲルを感じる。

【原始海洋】

僕の背が伸びたのに対して、nameの背丈がそう変わっていないことに気が付く。静かに泣いているnameの、子どものような体温が心地よかった。空も海も赤く染まっているのにどこまでも穏やかで、束の間どこにいるのかわからなくなる。
腕を解いて身体を離すと胸のあたりがすうすうした。反復なきこの世界で、こうして僕は少しずつ、いつか訪れる完全な喪失にむけて練習を繰り返すのだ。何度も、何度も。
そう思ったらひどく胸が痛んで、今度は僕が泣きそうになってしまう。
僕はnameの隣に座り直して彼女の手を取った。

「今度こそ本当に、きみが僕を幸せにする番だね」

「……うん」

湿った手に力が入る。

「そして、僕がきみを幸せにする番でもある」

僕は立ち上がりnameの手を引き立たせると、もう一度ちいさな身体を抱きしめる。
夕日がひと際強い光を放って海の向こう側に消えてゆく。西の空でひとつ、澄んだ星がひとつ瞬いていた。

【マイナス4.7等級の涙】
- ナノ -