2021-2022

nameは腰掛けたベッドで足をぶらぶらさせながら「あかるい街ね」とつぶやいた。ガラス窓にかけられたカーテンは開け放たれていて、向こう側には春の雨に滲んだ街のあかりが揺らめいていた。
上層階にバーのあるホテルの一室。情事の後。テーブルに置いてあるアイスペールの濡れた氷が角のとれた音をたてる。
やましい関係ではない。かといって健全でまっとうかと問われれば胸を張って是であるとこたえられるわけでもない。つまり、曖昧な、結論を先延ばしにした俺たちの関係はまさに、ぬるい雨に輪郭を奪われた春の夜と同じなのだ。

「こんなにあかるいのに、ほとんどの人は眠っているなんて不思議」
 
「俺たちだって、じきに寝るじゃないか」

「そうなの?」

nameが首を傾けると、乾かしたばかりの髪が肩にかかる。自分と同じ匂いのする髪。髪だけじゃない。そこかしこが。普段使うことのない類の甘い匂いのするシャンプー、ボディソープ。細かな泡の立つ、乳白色の入浴剤。砂糖を入れたホットミルクのような香りと泡に包まれて、風呂でのnameは少し眠たそうだった。
所在なさげにバスローブの襟元をいじるnameの隣に腰をおろすと、彼女の身体がこちら側に大きく傾く。

「それともなんだ、誘ってるのか?」

頭の天辺に唇を寄せて小さく笑うと、nameは俺から身体をすっと離してその形のいい目で俺を見つめた。化粧はすっかり落とされていて、まぶたの薄い皮膚の感じや、長いけれどどこか頼りなさそうに寄り添っている黒いまつ毛たちが、化粧をしているときよりも却っていきいきと俺の目に映る。血色のいい頬に指の背で触れるとnameは「そうね、誘ってるのかも」と他人事のように言う。
彼女の貪欲さに俺は時折怯んでしまう。何度も何度も壊れそうになりながら、これ以上はもう無理だろうというところまでのぼりつめ落下し、完膚なきまでに打ちのめされていながら、それでもある程度の時間の経過とともに、ついさっきまで自分の身体にされていた仕打ちなどなかったかのようにけろりとした顔で「菊田さん」と俺にまたがり首に腕を絡めるのだ。
ごく稀に、そういうことがある。きっと今晩はその「ごく稀」な夜なのだろう。

「私って菊田さんのこと好きなんでしょうか」と訊かれたときのことを今でも覚えている。俺としては、職場の後輩としての意味合いだけではない好意を彼女に抱いていた身であったので(無論、密かに。何故なら、冷静になれば思案して立ち止まる程度に俺とnameとは歳がはなれているのだから)、彼女の問いになんとこたえればいいのかわからずしばしぼんやりと、間の抜けた空白の時間を作ってしまった。飄々とそんなことを言ってのける彼女に、我に返った俺は余裕ぶって「そんな疑問が浮かぶ程度には好きなんだろ」なんていう半ば刷り込みのような呪いのような返答をしたはいいが、内心ではnameが次に起こすリアクションを恐れていた。俺の懸念をよそにnameは「なるほど、わかりました」とひとり頷くと、薄いベージュ色に塗られた爪を光らせながら耳に髪をかけ、それから俺を一瞥するとさっさと自分の部署に戻っていってしまったのだった。
あれから一年間経とうとしているなんて嘘みたいだ。ややくたびれ気味の俺の性器を口に含んでいるnameと目が合う。一年前のnameと今のnameが不意に交差したように見えて、俺は疲れ目をいなすような瞬きを繰り返す。「ろうひはんえふは?」おそらく、「どうしたんですか?」と聞いたのだろう。いたずらなくすぐったさに、俺はnameの髪をくしゃりと撫でて息をこぼす。
あたたかく濡れた場所に身を埋めた俺の背中に腕が伸ばされる。まっさらになったnameの唯一武装されている爪の先は、容赦なく俺に攻撃をくわえる。
隙のない化粧を施しているnameと対峙するとき、大なり小なり、意識的だろうが無意識だろうが、彼女が繰り出すありとあらゆる攻撃に対してきちんと身構えることができるのだが、化粧を落としたnameとなると途端に油断をしてしまうのはどうしてか。目の周りのきらめきやまつ毛のカールが失われたとして、瞳の意志の強さに何ら変わりはないというのに。 
よくしなるnameの白く細い身体を抱く。熱いぬかるみに自身を差し出す。ベッドの中、というか、セックスの最中のnameは至極単純でいい。ただまっすぐに、ひたすらに俺を求めているのが明白でいい。全身で俺を欲しがり、反応し、あまつさえ涙なんて流すのだ。もう、たまったものじゃあねぇよ。
あとも先もない時間。厳密に言えば少しだけ先の未来にふたりで果てることだけしか考えなくていい時間。果てにたどりつきたいと思うのと同じだけの強さで、どうか終わってくれるな、と思う。矛盾ばかりだな、と自分の外側から自分の声が聞こえてくる。

消えない街の明かりを俺はひとりで眺める。nameはすっかり寝てしまった。煙草が吸いたくて、しかしこの部屋は禁煙なので喫煙ルームに行こうかとも考えるが思いとどまる。
一度、同じような状況で部屋を空けたことがあったのだが、俺のいない間に目を覚ましたnameはひどく不機嫌な顔をしており、俺が部屋に戻るやいなや全裸のままこちらに向かって走ってきたかと思うと全体重をかけて飛びかかってきた。オレンジ色の照明に白く浮かび上がったやわらかく白い裸体と、陰影深い眉間の皺のコントラストに怯んだ俺は彼女を受け止めたものの、よろめいて背後のドアに背中をぶつけた。ずるずると床に沈んだ俺の腕の中で、「ひとりにしないでよ」と言ったnameの声が今にも泣き出しそうに聞こえて俺はうろたえた。
怯んだり、どうしようもなくなったり、うろたえたり。俺は俺が思っていよりもなよっちい男なのかもしれない、という考えは、彼女との関係が長くなればなるにつれて確信に変わっている。
ぬるいウイスキーを流し込み、分厚いカーテンを閉める。グラスをテーブルに置く音がしんとした部屋に響く。アイスペールの中の氷はもうすっかり溶けている。小さく盛り上がった掛け布団ごとnameの身体を抱きしめ、俺はあくびをかみ殺す。

【しずかなる廟】
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