タソガレドキ忍軍の昔話

暁の頃に敵領内に入った私たちは山間のとある場所へ向かっていた。昨日雑渡さんが言った通り、霧が一面に広がっていた。山間の谷に立った古寺の脇に、砦を築くのだろうか運びこまれた竹や木材が積み上げられているらしいがこの霧では見て取ることはできそうもない。
杉の大木に腰かけた私たちの頭上から「早かったな」と声がした。声の主である押都さんの顔に貼られた紙がぼんやりと浮き上がり、「様子はどうだ」山本さんが低い声で訊くとどこからか五条くんが現れて山本さんに一枚の紙を手渡す。覗きこむとそこには近隣の地図とここ数日の敵方の動きが記されていた。「木材運搬経路は把握している。が、ここから南に少し行くと割合大きな街道に出る。ここからそこまでの道を整備されると行軍が容易になるので早めにこの砦は叩いておいた方が良さそうだ、というのが私の見立てだ」すとんと私たちと同じ枝に降りてきた押都さんが言う。「なるほど、確かに」顎に手をあてる山本さん。

「恐らく古寺に数人詰めているであろうからまずはそこを急襲するのが得策か。人気はなさそうだが、あたりを探索して忍びが隠れていないかを確認し、いないようであれば合図と共に古寺に向かう」

「焙烙火矢を投げ込みますか?」

陣左が胸元に手を入れる。

「それじゃあ爆発音で遠くのやつらにバレちゃうから私は接近戦の方がいいと思います」

「しかしそうなると尊奈門は……」

山本さんが未だ発言をしていない尊奈門を見る。

「尊奈門は偵察をしたら古寺には向かわずに、他に敵が来ないか見張り役になるのがいいと思う」

私が言うと山本さんもそれがいいなと肯いた。けれど尊奈門は「私も、」と言い掛ける。それを陣左が「お前は駄目だ。小頭の仰っていたことを忘れたのか」と遮った。唇を噛む尊奈門の手を取って「尊奈門は目がいいからこの中で一番適任だよ。それに見張りがいなくちゃ安心して攻め入れないからね。頼りにしてるよ」とおだてると尊奈門は少し調子を取り戻す。「お任せください!」と胸を張っている尊奈門に陣左が「単純」と小声で漏らすので、私は陣左の脛を蹴り飛ばした。後輩がやる気になっているのに水を差すような真似をしなくていいの。矢羽音で言うと陣左はそっぽを向いてしまう。この頃陣左は尊奈門に意地悪だ。あいつは生意気なのだと怒っているけれど、本当は気にかけているのだからきちんと言葉で伝えればいいのに色々と端折ってしまうから傍からはきつくあたっているようにしか見えない。
濃紺の空の端が白み始める。夜明けの地表を漂う霧に気配を隠し、私たちは八方に散った。木から木へ飛ぶ身体は軽やかだ。呼吸をするごとに冷たく濡れた空気が体内に行き渡る。夜が終わりを告げるこの時間が好きだった。常に全身で周囲に気を配りながら移動する。古寺に近付きすぎず、離れ過ぎない距離を保つ。とはいえ霧が深いので全ては感覚だ。もし敵がいた場合、一瞬でも気を抜けばすぐに背後をとられるだろう。ぴりぴりとした緊張感をおもてに出さぬよう樹上を飛んでいると、鋭く雉が鳴く声が二度響いた。合図だ。地面に降りると出来る限り頭を低くして古寺を目指す。一番乗りは陣左だった。次いで私、山本さん。黒鷲隊の面々は屋根の上に陣取っている。
尊奈門は大丈夫だろうか。この霧では見張りをするにしても視界が悪すぎる。早々に蹴りをつけて彼を回収するのが得策だろう。陣左と目配せをする。蹴りで戸を破り陣左が中に滑り込む。私も後に続いた。堂の中では忍びが三人、苦無を手にこちらに向かってくるところだった。鮮やかに陣左がふたりを斬り倒す。ひとりは、見逃された。おそらく私にやらせるために。「お前の獲物だ」と陣左が唇を持ち上げたのが見えた。私にまで意地悪するようになるなんて。反抗期なのだろうか。足を払って体勢を崩した背中を振り向きざまに抜刀し刺し貫く。朝の綺麗な空気で身体を満たしたそばから漂う血のにおいが全身にべったりとへばりつくので、私はそそくさと建物から退散する。屋根の上では黒鷲隊の若者三人が敵一人を囲んでいた。こっちも早々に終わるだろう。目を閉じて感覚を研ぎ澄ます。その他に気配はなさそうだった。

「山本さん、私、先に尊奈門を拾ってきます」

「ああ、頼んだ」

そう言った山本さんの表情は引き締まったままだった。気配はないがこの霧なので敵がこれ以上いないとも言い切れない。おおかたそのようなところだろう。山本さんの仕事に対して最後まで決して気を抜かない姿勢は尊敬に値する。私も気合を入れ直して地面を蹴った。「見張りだから、そう遠くには行っていないはずだけど……」あたりをぐるりと回ったけれど尊奈門の姿はどこにもなかった。合図を送るも気づいた様子はない。
空の色は刻々と変化し、朝焼けに染まりだした空が日の出が近いことを告げていた。早く尊奈門を探し出して撤収しなければ。うっすらとした焦りが広がる。もう少し探す範囲を広げた方がいいかもしれない。もし、万が一尊奈門が敵と対峙していたら。あるいは……。嫌な予感が胸をよぎり、私は足を速めた。眼下に広がる霧に目を凝らす。どこにいるの、尊奈門。すると草叢が不自然に揺れたような気がして、私は足を止め地面に降りる。動いたあたりを遠巻きに見ながら、苦無を握る手が嫌な汗に湿っていた。
誰か、いる。確信した瞬間男が草から飛びあがるように後退った。肩で息をしている男は手首を抑え忌々しそうに唾を吐くと「ガキが、ふざけやがって」と背中の忍刀を抜く。男が飛び去った場所から顔を出したのは口から血を流している尊奈門の姿だった。残念ながら嫌な予感は当たっていたらしい。
腰をかがめて足音を忍ばせ男の背後を取るも、目の前に苦無が降ってきた。

「バレていないとでも思ったか?」

「っ、」

刃先が頬を掠め、じんわりとした痛みが顔に走る。間髪入れず斬りかかられたので間合いをとって体勢を立て直そうとするものの、それすら許さぬ速さで距離を詰められ私は防戦一方になる。強い。全身で男の強さを感じる。尊奈門が怪我程度で済んでいるのが奇跡といっていいほどの強さだった。「逃げなさい!できるだけ遠く……っ」尊奈門の方を向く余裕などなかったので私は声を張り上げた。声を出すと女だとわかってしまうので私は敵と対峙する際決して声を発しない。
女とわかった瞬間に私を見る目が変わるのが大嫌いだった。ああ、女なのかと値踏みするような、見下したような目を向けられると虫唾が走るのだ。女だからなんだ。強さだけを見ろ。
両手で刀を握り相手の刃を受け止めていると、男は左手を柄から離す。それでも私の手にかかる力が半減することはない。馬鹿力め。踏みしめる足の裏が土を削るのがわかる。足に力を入れようとした私の頭上にぬっと伸びてきた男の腕を辛うじてかわしたけれど、引きちぎるようにして頭巾が奪われた。

「綺麗な顔だ」

「っ、馬鹿にするな」

頭巾の中で結ってあった髪が落ちて背にかかる。

「綺麗なものほど、汚してやりたくなるのは何故だと思う」

私の頭巾を投げ捨て男が問う。知るか、と唾棄してやりたかった。綺麗なものほど汚したくなる?ものなどおしなべていつかは汚れてしまうのだ。どうしてわざわざ汚す必要があるだろう。綺麗なものを、綺麗なままとっておくほうがよほど難しいというのに。刀を握る手が痛かった。尊奈門はいまだ動けずにいる。

「そんなこと知らないし、問答する義理もない」

「では、身をもって知ってもらおう」

男は右手で持っていた刀で私を薙ぐ。受け止めていた刀ごと弾き飛ばされ私は草の上を転がった。
立ち上がった私をまっすぐに見下ろしている男の纏う気配が変わる。夜の名残をかき集めたような漆黒の禍々しさは狂気を孕んで、男のまわりで渦を巻いていた。

「逃げろ、尊奈門!はやく!」

私が生きてたらまた会おうね。

胸の中で付け加える。尊奈門の気配が消え、私は自然とこみ上げてくる笑いを止められなかった。けれどこの場で笑うのはあまりにも不自然なので、なんとかこらえようとするけれど口の端がむにゃむにゃと波打ち、ついに「あははっ」と声をあげて笑ってしまった。

「何がおかしい?」

「あなたと相見えられるのが嬉しい」

「嬉しい、か」

嬉しいのか、楽しいのか、それとも極度の緊張で頭がおかしくなったのか。それでも私の身体はかつてないほどに冴えわたっていた。手足の爪の先まで、なんならば髪の先まで思い通りに動かせそうな気がする。こやつは、私が先にゆくために倒さなくてはならない相手だ。ここで負けるようでは雑渡さんより強くなるという宿願を果たすことなど到底不可能だろう。私はもう、誰にも負けるわけにはいかない。全力で殺って、駄目なら殺られる。忍びとは、そういう生き物なのだ。
山の稜線が燃えるような赤色に染まり、霧が含む光の明度が強くなる。さっきよりも空は白さを増す。今日はいい天気になるだろう。城に戻ったら雑渡さんの包帯の洗濯をしなければ。おとといは雨だったし、昨日は天気があやしくて洗濯できなかったから。できると、いいな。
私は手のひらに雑渡さんの手の熱を思い出し、その熱の記憶を背中にそっと乗せる。
「行っておいで」忍務開始の合図と共に散り散りになる前、雑渡さんが私たちに言う言葉。そうして、戻ると必ず「おかえり」と言ってくれた。そのひと言が聞きたくて、そのひと言のためならなんだってやれる気がした。この人は私のことを待っていてくれたのだ、そう思うだけで痛みも疲れも消え去って、幸福があっという間に私を満たすのだ。
「いってきます、雑渡さん」私は声に出す。雑渡さんが戦列を離れてからも、ずっとそうしてきたように。
手持ちの手裏剣はすべて打ちこみ、半分に折れた忍刀も地面に突き刺さっている。けれどそれはお互い様だ。残るはこの苦無一本だけ。柄尻の輪に指を掛けくるりと回転させ握り込む。小細工は通用しない。太腿とわき腹を浅く斬られた程度で大きな怪我はない。まだやれる。むしろこれからだ。切れた口の端から垂れている血を舐めて私は高く跳躍する。身体が小さい分小回りが利くので接近戦は嫌いではない。それに、昔から陣左と競い合ってきたのだし。陣左は尊奈門から私のことを聞いたら探しに来るだろうか。来るのだろうな。陣左は昔から心配性だから。
なんて、思いながら、私は、腰のあたりを、思い切り蹴り飛ばされる。いけると、思ったのにな。受け身を取ることもできないまま木の幹にぶつかり、目の前を星が飛ぶ。影が私を包む。のみ込まれる、と思った。手を背中で束ねられ首を掴まれる。

「殺してもらえると思うなよ」

背後から聞こえてくる声には温度も色もなかった。「まだ答えを聞いていないからな」そう言って男は私の髪を掴んで無理矢理振り向かせる。頬にあてられた苦無は今しがたまで朝の空気を切っていたせいでひどく冷たかった。苦無の先がつつ、と下に降りてゆく。上衣の胸元が大きく開かれ、胴に巻いたさらしが露わになった。

「隠すようなものでもないだろう。女だからと侮られたくないからか」

「うる、さい」

図星だった。華奢な体も不本意ながら育った胸も、軽んじられる要因でしかない。だからひた隠した。そんなことを今この場でこいつに言われる筋合いはない。胸の真ん中に苦無の先端が押し当てられ、嫌な音をたてながらさらしが切られてゆく。悔しい、悔しい、悔しい。最後の最後でこうなるのだ。力でねじ伏せられ、辱めを受ける。でも違う、それはひとえに私が忍びとして至らなかったからだ。けれど思わずにいられない。私が男だったらと。陣左が言った言葉を思い出す。お前を守れるように、と陣左は私に約束してくれた。ねえ陣左、私がもし男でも、あなたはそう言った?そんなのは問題ではないことなどわかっている。女だとか男とかではなくて、友人として、幼馴染として彼はそう言ったのだ。足りない部分を補うなんて、当たり前のことなのに。

「では、今から汚してやろう」

もし自分が犯されるようなことがあれば舌を噛んで死ぬと決めていた。これまで誰とも通じたことは無い。この先もきっと、ない。心残りがあるとすれば、もう一度雑渡さんと一緒に仕事がしたかった。そしてごめんなさい、包帯、洗えそうにないです。
ふと、私は今がいつなのかわからなくなる。現実の時から過去の穴に吸い込まれ、五歳のあの時に戻ってゆく。私は幼く無力だった。あのときから、なにも変わっていないのではないかという疑念がせり上がり、それは吐き気となってこみあげる。全ての努力も、全ての時間も、今こうしてねじ伏せられる程度の強さを手に入れるのみに費やされたというのだろうか。ただひとりの背中を追って、ここまで来たというのに。私の、忍びとしての矜持が砂となって崩れ落ちてゆく。
せめて操だけは守って死のう。最期の光景を目に焼き付けると、唇を薄く開いた。

「それは駄目だよ」

鮮烈な朝焼けと、顔を出した朝日の放つ光線を背に、雑渡さんが立っていた。
違う、木の上から降りてきたのだ。でなければこんなことにはならない。男は首筋からぶっすりと刀で刺し貫かれていた。けれど、でも、そんな。

「雑渡さん、……身体は、」

雑渡さんは「よいせ」と私を犯さんとしていた男の骸を投げ捨てるとなにも言わずに私の上衣の襟を直してくれた。
今回の忍務に雑渡さんが参加するなんて話は聞かされていない。どうしてこんなところにいるんですか。あんな高い所から飛び降りたら身体に障るじゃないですか。というか部屋にいないといけないじゃないですか。そもそも今日の包帯交換まだじゃないですか。なんでそんな無茶なことをするんですか。
なんで、私のことを抱きしめているんですか。

「強くなったね、name」

雑渡さんが言ったひと言に、涙が溢れた。
もう長い間泣いたことなんかなかった私は、しゃっくりみたいな嗚咽だとか、泣くことによって出てくる鼻水だとか、自分の意思とは関係なくどれだけでも滝のように流れてくる涙だとかの止め方がまったくわからない。雑渡さんの忍び装束の胸元が、私の顔から出る水分でどんどん湿っていく。よほどのことがない限り雑渡さんのこの服は二日に一回洗っていたのに、こんな時に限って洗ったのは三日前だ。だって、今日これを雑渡さんが着るなんて露とも知らなかったから。
服が濡れてゆくごとに雑渡さんのにおいが強くなる。爛れた皮膚と薬と包帯のにおいだ。ずっと、そばで嗅いできた愛しいにおい。
雑渡さんの手が私の背中に触れる。その温もりは、さっき自分で思い描いたぬくもりそのものだった。そして、五歳だった私の手を握ってくれたそれともまったく同じで。全てが、あわあわと重なってゆく。私はまた雑渡さんに助けられてしまったんだと思うと、またしてもどっと涙が出て、子どもみたいに泣きじゃくってしまう。これじゃあ本当に何も変わってない。うっかりすると雑渡さんの背中に腕を回してしまいそうで、でも分別なくそうしてしまえるほど子供ではなく、だから私は自分の上衣を握りしめる。
雑渡さんは私の涙が止まるまで静かに背中を撫でてくれていた。もう大丈夫ですと顔をあげた私を見て「私が言うのもなんだけど、凄い顔だよ」と涙の残りを親指で拭うので、私は気恥ずかしくて俯いてしまう。

「name!」

陣左の声が聞こえ、そしてみんながやってきた。いつの間にか霧はすっかり晴れていた。

「って、え、小頭、何故ここに……」

私の隣に立っている雑渡さんを二度見では飽き足らず四度も五度も見ている陣左に「ひとまずみんな無事ってことで。そんじゃ帰るよ」とへらりと笑ってみせる雑渡さんは、陣左の背後に隠れるように立っている尊奈門に「尊奈門、なんか言うことは?」と顔を向ける。尊奈門はよたよたと私の前に出てくると「すみませんでしたぁ!!」と鼻水を垂らしながら膝におでこがつきそうなほど勢いよく頭を下げた。

「敵が急に現れて、私が深追いしたせいで……見張り役を仰せつかっていたのに……うぅ」

手の甲で涙を拭う尊奈門のお尻を陣左が蹴り飛ばしたせいで尊奈門の泣き声はますます大きくなった。

「じゃあ尊奈門は帰ったら腕立て千回ね」

と私が笑って言うと「腹筋もだ」と陣左が続き「背筋もね、あと反省文も提出ね」と雑渡さんが尊奈門を指さした。

「尊奈門が泣きながら来たときはお前が死んだのかと思って……、」

多分、笑って済ませようとしたのだろうけれど陣左は声を詰まらせた。「私もこれは死んだなーと思ったよ」このザマだし。と両手を広げて怪我を見せると陣左はまるで怪我をしたのが自分だとでもいうみたいに顔を顰めて私の腕を掴む。乾いた血がこびり付いた中心はまだ生々しく滲みだしている血で濡れていた。「手当してやる」「いいよこれぐらい」押し問答をしているうちにタソガレドキ領に戻っていた。道中、山本さんに「勝手なことをされては困ります」「無理をして悪化したらどうなさるおつもりですか」「もう元気だから?だからといってあのような無茶をしてもいいというわけではありません」「万全ではないことぐらいご自分でおわかりでしょう」などとお小言をもらい続けた雑渡さんは城に戻るや否や私の腕をひっつかんで部屋に逃げ込んだのだった。
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