タソガレドキ忍軍の昔話

三年。今となってはその数字が多いのか少ないのかよくわからない。毎日が手探りで、毎日が暗黒だった。果てしなく続く真っ暗な闇の中に取り残されたような気分であったことは覚えている。それでも、握るべき手はいつもそこにあった。大きくて、あたたかな手。それだけを頼りに私は生きていた気がする。
不思議と誰かを憎んだり、恨んだりする気持ちは起きなかった。身を挺して尊奈門の父親を助けた雑渡さんのことを、ただ誇らしいと思った。だから死なないでほしかった。この先も私を、私たちを導いてくれる人は雑渡さんしかいないと思ったから。
雑渡さんを殺さずに生かすと決めた時、自己満足ではないのかと問うた殿は正しかった。生きてほしいと願ったのは私と尊奈門で、雑渡さんは死を願った。苦しみもがく雑渡さんの手を取って「生きてください」となどとほざく自分が恐ろしい悪鬼のように思えて仕方がなかった。本当に正しい選択だったのだろうかと自問した夜は計り知れず、けれどその疑問を声にしてしまったが最後疑念は確信に変わってしまう気がして、私は雑渡さんを信じて看病するほか選択肢はないのだった。
雑渡さんのいない世界なんて、私にはありえない。
ずっと憧れだった。お日様が眩しくて、月が綺麗で、星に手を伸ばしてしまうように、幼いころから雑渡さんの背中を追ってきた。純粋な憧れの気持ちにいつしか混ざっていた恋慕の情に気付かぬふりをしながら、それでも戦忍びとして彼の傍にいることを選んだ。たとえ彼が妻を娶っても、忍びとして隣に立つことができればそれでいいと思った。だって、お日様には触れられないし、月は遠い、そして星だって、手を伸ばすばかりで光だけが指の隙間から零れ落ちる。

初めて雑渡さんの意識が戻った日、声を出せた日、手が動かせるようになった日、身体を起こせるようになった日、布団から出られた日、縁側に座れた日、庭におりられた日、そして自分の足で歩けるようになった日。
それは良く晴れた早春の朝だった。縁側に腰かけていた雑渡さんは置いてあった草鞋を何度か失敗したのちにつっかけると、ひょいと腰をあげ立ち上がった。花瓶に生けるために梅の枝を鋏で切っていた私は、そんな雑渡さんの一連の動作を部屋の中から眺めていた。雑渡さんは自分が自力で立てたことに驚いている様子だった。上体を左右に少し捻り、足の裏が地面を踏みしめる感覚を確かめる。そして一歩、二歩、と足を踏み出した。砂地が鳴るというなんということのない音が、私の耳を幸福で埋めた。

「梅の花、いいにおいがしますよ」

手にしていた梅の枝を置き、私は庭先に出て雑渡さんの隣に並んだ。少し離れた庭の隅に植えられている紅梅が花をつけていた。梅の木の脇に立ち雑渡さんが来るのを待つけれど、雑渡さんはその場から動かない。二歩あるけたのだから上出来じゃないかと思い、私はまた雑渡さんの隣に戻る。

「まだ少し冷えますね。中に戻りましょうか」

「手、引いてくれないの」

思いがけない雑渡さんの言葉に私は自分の手をぎゅっと握りしめる。本当は、梅の木まで手を引いていこうと思ったのだ。けれど、できなかった。陽の光を浴びて、きちんと自分の足で立っている雑渡さんは布団で横たわっていたこれまでの雑渡さんとは別人のようで、看病のためとは違う意味で手を取ってしまいそうだったので、つい梅の木まで先にひとりで行ってしまった。

「ま、いいけど。ちょっと寂しいものがあるよね」

なんか急に突き放された気がするんだけど。と零す雑渡さんに「過保護にしすぎましたね」と笑って返すことで、私は自分の中に渦巻いた感情をうやむやにした。霧散しても結局はまた胸の真ん中に集まって、ぼんやりとした輪郭を持つその感情の名前を知らないわけではなかった。
ゆきすぎた憧れであり、崇拝に近い思慕あるいは敬慕なのだと何度も自分に言い聞かせた。恋慕の気持ちを時たま認めることはあったとしても、年頃の女にありがちな一時的な気の迷いとわざと気に留めぬふりをした。いったい誰のために?そう、自分のために。
叶わぬ恋とわかっていたから。
忍びとして彼の隣に立つことだけを夢見ていた私は、女としての在り方なんてとうに忘れてしまった。くのいちではなく狼隊に入ると決めたあの時から忍びの腕だけを磨いてきた私が、女として雑渡さんの隣に立つことなんてあり得るわけがない。梅の枝を花瓶に生けながら、ああ、こんなことを考えることすらおこがましいと、ふわふわと喉のあたりで渦巻いている春色の感情を枝の端と一緒にバチンと鋏で切り落とす。枝が床板の上で転がる。これでいい。余計な感情は邪魔になる。私は強くなる。それだけだ。
歩けるようになって以降、雑渡さんの身体は急速に快方に向かった。ところどころ治りきらない箇所はあるものの、火傷のほとんどは新しい皮膚に覆われていた。久しぶりに様子を見に来たお医者さまは、庭の木の枝で懸垂をする雑渡さんを見てあきれるやら驚くやらで、あまりご無理はなされませんようにとだけ言って、塗り薬を置いて帰っていった。
付きっきりでなくなった分自由な時間が増え、私は以前のように陣左と尊奈門と鍛錬をする日々に戻っていった。十三歳になり、念願かなって狼隊に入隊をした尊奈門の目覚ましい成長ぶりは見ていて面白いぐらいで、泣き虫だった尊奈門も大きくなったものだなぁと感慨深くなる。ずっと下の方だったはずの目線も、今では私に届きそうなほどだった。けれど陣左には到底及ばず、それは身長に限った話ではないので尊奈門は陣左に追いつけ追い越せの勢いで鍛錬に次ぐ鍛錬の日々を過ごしているのだった。
その年の秋ごろからまだ本格的ではないにせよ、雑渡さんは徐々に狼隊小頭としての仕事をこなすようになってきた。まだ身体が万全ではないため部屋での机仕事のみであるものの、内々に集められた情報から作戦を立案し、火薬の配置や段どり等を差配していた。隊の皆は雑渡さんがまた自分たちの上に立つことに喜びを隠そうともせず、狼隊のやる気と熱意は相当のものだった。誰もが小頭に恥じぬようにと雑渡さんが伏せっている間も誇りと矜持をもって忍務にあたっていたけれど、雑渡さんの復帰によって今度は「小頭にお褒めの言葉をいただくのだ」とまるで投げられた木の棒をとってきて舌を出す子犬のような具合なのが面白かった。
近隣に出城が築かれているとの情報が入り、その様子を偵察に行った報告をしに雑渡さんの部屋に訪れた時のこと。失礼します、と声をかけると「入っていいよ」とのんびりした声が返ってきた。戸を開けると雑渡さんが抜いた忍刀を手にしていた。
刀の手入れをしているだけのなんということのない光景だったはずなのに、2年ほど前の記憶が鮮やかによみがえり私は手にしていた巻物を取り落とした。紐が解け、私の足元から雑渡さんの座っている場所に向かって巻物が長く伸びてゆく。
指先が冷たい。目の奥を掴まれ眼球を揺さぶられているように視界がぐらついていた。静かに刀を鞘に納めた雑渡さんが巻物の端を掴み、手繰り寄せる。不意に足の力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。

その出来事が起こったのは怪我からひと月半ほど経ち、身体は起こせずとも雑渡さんの意識がだいぶはっきりとしてきた頃だった。
包帯を取りに行くついでに殿の元に参上し、いつものように雑渡さんの様子を報告して退出した私は廊下で数人の男とすれ違う。「あの死にぞこないの看病をまだしておるのか」「かまけるだけ時間の無駄よ」「さっさと次の小頭を据えるよう山本に伝えよ」「縁談も破談になり忍びとしての道も潰え、あれほどまでに恐れられていた男もこうなれば呆気ないものだ」「お前も好き者よな」「あやつも色にかまけて女などを隊に入れるからこうなるのだ。稚児でも傍に置いておけばよいものを」「看病とかこつけてあやつの身体を見たのだろう。どうであった」「どれだけ立派だったとて、あれではもう使い物ならぬか」下卑た嗤い声が一斉に廊下に響く。瞬く間に湧きあがった憎悪に私は唇を動かさずに「殺す」と言った。そしてその後、私を襲ったのは途方もない哀しみと悔しさだった。
なにも知らないくせに。なにも、なにひとつとして。
私と陣左を助けてくれた雑渡さん。小さかった私と陣左に嫌な顔せず稽古をつけてくれた雑渡さん。忍務を成功させると決まって褒めてくれた雑渡さん。夜空を背負うように闇を舞う雑渡さん。尊奈門の父上を支え、炎に包まれ戻ってきた雑渡さん。朝も夜もなく痛みに呻き、血反吐を吐き、殺せと繰り返す、雑渡さん。
私たちの全てを馬鹿にし否定された気がした。
私はお前たちよりも強い。この場で殺めることだって簡単だ。でもしない。そんなことをしたって何の意味もない。お前たちの鬱憤晴らしに付き合っている暇などない。拳を握りしめ唇を噛まねば涙が出てしまいそうだった。ぬるく鉄くさい血が口の中に広がる。こんな痛みなど、と思った。こんな痛みなど、雑渡さんの痛みと苦しみに比べたら。

「さっさと殺して楽にしてやれ」

嘲りと共に吐き捨てられた言葉は私の胸をざっくりと抉った。心が流す血が、目に見えなくてよかった。見えない血の跡を引きずりながら、私は重たい足取りで部屋まで戻った。
部屋の戸を開けた私が見たのは、布団からはいずり出て刀を手にしている雑渡さんだった。鞘から刀を抜こうとするも力が入らないのか何度やっても鯉口を切ることすらできず、やがて力尽きた彼は額を床板に叩き付けて乾いた声で吼えた。死ぬことすらできぬのか。私に向けられた言葉だったのか、自分に向けた言葉だったのか。言葉の端が濡れていて、私の胸は激しく軋む。
包帯を投げ捨て雑渡さんに駆け寄る。言葉はなにも出てこなかった。無理に動いたせいで雑渡さんの腕に巻かれた包帯には血が滲んでいた。彼の手から刀を取り上げ、その手を握った。熱を持った手は確かに彼が生きている証なのに、それが酷く悲しかった。
雑渡さんは泣いていた。私は彼の背を撫でることしかできないでいた。もっと沢山のことをしてあげたいのに私にできることはほんの少ししかなくて、鍛錬などしたところでここでは私の強さなどなんにも役に立たなくて、私のしてきたことは一体何だったのだろうと目の前が真っ暗になる。雑渡さんが生きていることを確かめるように強く手を握る。皮膚の奥で流れる血潮を感じられるほどに。どうしようもなくなって震えている雑渡さんの包帯の巻かれた頭に唇をつけると、唇の形をした血の痕が包帯に残った。
私が決して涙を流さないのは、かつて誓いを立てたからだった。いわば願掛け。「つよくなるまで、わたしはぜったいに泣きません」赤くなった目で言った幼い私の頭を撫でて、あの日の雑渡さんは頷いた。だから泣かない。どれだけ辛くても、どれだけ悲しくても、どれだけ悔しくても私は泣かない。泣いても何も変わらない。けれどそれは、私の膝に顔を埋めて肩を震わせている雑渡さんの涙への否定ではない。泣いて、それでも生きてくれるのなら、どれだけでも涙を流せばいい。「戦ってください。全力で、今と」あたたかく湿ってゆく太腿はやがて冷え、眠ってしまった雑渡さんの苦し気な寝息が静かな部屋に響いていた。床の上で、転がってほどけた包帯が幾つも交差して伸びていた。

目の前の雑渡さんの顔にハッと我に返る。背中が汗で冷たくなっていた。「疲れたならここで寝ていっても構わないよ」布団、出そうか。と雑渡さんが腰を上げかけたので私はあわててすみませんと謝った。巻きなおされた巻物を手に「じゃあお菓子でも食べていったら?さっき山本が持ってきてくれたやつがあるから」と巻物の先で文机の上を示す。お饅頭が乗ったお皿を見たら途端にお腹が減って、ぐぅと腹の虫が鳴いた。じゃあ遠慮なくいただきますねとふたつ手に取って両手で頬張ると「嫌いじゃないよその食べっぷり」と雑渡さんも饅頭を掴む。
「nameは昔から甘いもの好きだよね」「雑渡さんだってけっこうな甘党じゃないですか」「まあね」「あ、それ出城の見取り図と大まかな兵力の予想が書いてあるので確認をお願いします。内部の調査はまた後日陣左と尊奈門を行かせると山本さんが言っていましたが暇なので私も一緒に行くつもりです」「暇、ねぇ」手の平で巻物を転がしていた雑渡さんは「はぁ熱くて渋いお茶が飲みたい」と私を見るので「仕方ないですね。これも部下である私の仕事ですもんね。暇な私を使ってくださってありがとうございます」と立ち上がった。
つもりだったのだけれど、どういう訳か見えているのは天井だった。

「やっぱりお茶はいらないから、その代わりきみは少し寝ること。それが今日のnameの仕事です」

「本当に、大丈夫ですから」

仰向けに倒れるところだった私を抱き留めてくれた雑渡さんの腕から抜け出そうとするけれど、強い力で制される。そんな風に、触れないでほしかった。男と女を否が応にも感じざるを得ないこの状況は、自分が「忍び」以外の何かにされてしまいそうで怖かった。「はいじゃあこのまま寝るからね。目、閉じて」大きな手が私の目を塞ぐ。あたたかな暗闇だった。多分今晩か明日あたりに月のものが来るのだろう。そうなったら五日は忍務に出られない。陣左と尊奈門に後れをとるのは癪だったけれど仕方がない。自分でも律しようのない眠気にのみ込まれる。別に、疲れてなんかいませんからね。そう言ったつもりだったけれどあまり呂律が回っていなくて、暗闇の向こうで雑渡さんがやわらかく笑った気配がした。おやすみ、name。低く響く声。雑渡さんの腕の中、眠りの底に向かって私はゆっくりと落下してゆく。
目が覚めると、私は布団に寝かされていた。そんなことにも気が付かずにぐうぐう寝ていたなんて忍び失格だな。なんとなく怠い体を起こして部屋を見渡すけれど雑渡さんの姿はなかった。
それから村に戻った私は五日間家から出ずに過ごし、忌まわしい血の数日間を終えると腹いせの如く尊奈門を鍛錬でこてんぱんにした。高坂さん、nameさんをどうにかしてください!と泣きついてきた尊奈門の頭にできたたんこぶをつつく陣左は呆れたように私を見る。「もうちょっと手加減してやれ」「手加減したら意味ないでしょ」「限度ってもんがだな」「次は組手だよ!尊奈門!」「うわーんもう嫌ですー」「だからやめてやれって」やいやいやっていると山本さんが顔を出す。

「高坂、name、尊奈門。きりが付いたら一緒に城に戻るぞ。小頭がお呼びだそうだ」

「昨日帰ったばかりなのにまたお仕事ですか?」

山本さんも陣左も三日間の忍務を終えて昨日村に帰ってきたばかりなのだ。尊奈門にはまだ難しい任務だったらしく、置いてきぼりをくらった彼はそうとう拗ねていたらしい。次こそは自分も忍務に参加して功をあげるのだと目を輝かせている。お前の自信はどこから来るのだと尊奈門の頬を抓っている陣左を山本さんがまあまあと窘める。「やる気があるのはいいことだ。小頭も尊奈門には期待しておられるのだよ」と言った山本さんの優しさに陣左も肩を竦めて黙るのだった。
早々に城内にある忍軍用の長屋にいる雑渡さんの元へ向かった私たちは新たな忍務を告げられる。近隣の城が怪しい動きをしているらしく、動向を探ってくるというものだった。「黒鷲隊の先遣が行ってるんだけど、こっちの動きに感づいているのか向こうの忍者隊も動き出してるみたいで。押都たちが昨日出たから大丈夫だと思うけど、一応ね」そこまで言うと雑渡さんは身を乗り出して話を聞いている尊奈門に目を向ける。「ということで、尊奈門、お前も今回は参加してヨシ」「やったー!」間髪入れず両手を挙げた尊奈門に陣左のげんこつが飛ぶ。「やったーではない!ありがとうございますだろう!」「尊奈門、頑張ろうね」「はい!」またしてもやいやいやりだした私たちに「きみたちうるさいよ」と言う雑渡さんは「山本、この子たちの引率よろしくね」と口元に手をあて目を細めた。

「引率って、遠足じゃないんですから」

馬鹿にされたと思って頬を膨らませた尊奈門に山本さんが真面目な顔をする。

「そうだ、遠足ではない。忍務なのだ」

「まあまあ山本。尊奈門は張り切りすぎてみんなに迷惑かけないように。陣左とnameはいつも通りで頼むよ」

「はっ」陣左が即座に頭を下げ、私は「はい」と短く返事をする。さっきまでの態度を一変させた尊奈門は神妙な面持ちで肯いた。

「出発は今晩。きっと明日の朝は霧が出るから、それに紛れて行くといい」

雑渡さんはそう言うと、殿に用があるからと部屋を後にした。
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