タソガレドキ忍軍の昔話

それは悪夢のような、むしろ悪夢の方が生ぬるい、とにかく救いのない日々だった。
「お前はそれでよかったのか」殿は何度も私に訊いた。そのたびに私は頭を下げ「はい」と答えたが自分が正しいことをしているのか自信はなかった。
私の不注意がために小頭の父上を死に至らしめたあの日より、私はなにがあっても小頭をお支えすると心に決めていた。だからこそ、痛みに苦しむ小頭をこのまま生かし続けることが正解なのかわからなかった。殺した方が小頭のためになるのではないかと、部屋に響く呻き声の中で私は幾度となく思った。事実「殺してくれ」と小頭は私に何度も何度も懇願した。痛みと熱に朦朧とする意識の中で辛うじて紡がれた弱々しい言葉は地獄谷の底から聞こえてくるかのようだった。
小頭のそのように弱気な姿など見たことがなかった。お父上が身罷られてときでさえ気丈に振舞われていた小頭が、もがき、苦しみ、のたうち回り、そして自らの命を投げうつようなことを口にする日がくるとは。頼む、山本、私を殺せ、父上のところへ、私を、はやく。眠りにつこうとすると暗闇から小頭の声が聞こえてきた。眠りの中でさえも声は私を離さない。うなされて汗だくになった私を、妻が泣きながら抱き締めていた。

「なあ山本よ。お前の気持ちはまだ変わらぬか」

御前に呼び出された私は扇をゆるく扇いでいる殿にまたしても問われる。

「何度聞かれたとて、私の気持ちに変わりはありません。小頭には生きていただく、それだけです」

「私とて、あやつの腕はかっておったのだ。なにせわしが城持ちになった時からの付き合いだからな。しかし、ああなってしまっては例え快復したとて忍びどころか真っ当な生活を送れるかすら怪しいではないか。医者も匙を投げておるのだろう。あやつは死を願ってはおらぬのか?ひとおもいに楽にしてやるのが、私としてはせめてもの情けだと思うのだが」

「……それは、」

同じことを、考えております。そう言えたらどれだけよかったか。
「できませぬ」と顔をあげた私に殿は大きくため息をついた。
私がここで小頭の生を否定する発言をするということは、nameと尊奈門への取り返しのつかない裏切りとなろう。かつて「私はいずれ組頭になる」と言った小頭の言葉を信じて疑わないふたりは昼夜問わず懸命に看病にあたっている。nameなど忍務のみならず鍛錬を疎かにすることもせず、そのうえ小頭の看病役をかって出ているのだ。
はじめ、私は尊奈門にもnameにも小頭のことは医師に任せ、今後の判断は殿に仰ぐべきであると言い渡し、決してふたりを小頭の部屋に入れようとしなかった。そうしたところ、なんとふたりは殿の元へ直訴をしに行ったのだった。それもあろうことか、忍び込んで。
血相を変えて私の部屋にやって来た部下の後について殿の元へ行くと、床に額を擦り付けているnameと尊奈門の姿があった。胴と頭が繋がっているのが不思議なぐらいであった。申し訳ありませんとひれ伏した私に「よい」と手をあげ、殿は「してお前たちの言い分は」と下座に並ぶふたりに目をやった。「雑渡さまはタソガレドキ忍軍にとってなくてはならないお方」「必ずや元気になってまた私たちを率いてくださいます」「助かった命を奪うことなど」「どうか看病をさせてください」私に言ったのと同じことをnameと尊奈門は殿に切々と上申した。
脇息に肘をつき目を閉じてふたりの言い分に耳を傾けていた殿は、全てを聞き終えると私と同様のことをふたりに言った。ただし私がしたようにな遠回しな言い方でなく、事実をありのままに突きつけた。「あやつの看病はお前たちが想像しているような生易しいものではない」「むしろお前たちが正気を失いかねんぞ」「よく知る者が面影すらも失い苦しむ姿を目の当たりにするのだ。それに耐えられるか?」「あるかどうかもわからぬ未来を見せ続けるようなことがお前たちにできるのか」「嫌になったと、辛いからと、匙を投げることは許されぬのだぞ」覚悟をぐらつかせるには十分すぎる言葉の数々に、ふたりはそれでも耐えた。泣きじゃくりながらも「できます、やれます」と声を張る尊奈門の手を握り、nameは「私は小頭を信じます。だから私は小頭のお傍にいます」と気丈にも殿をまっすぐに見据えて言ったのだった。

「では、あやつがもし、殺してくれと懇願したら?」

空気が重さを増した。殿が煙管に手を伸ばして咥える。ゆるりと紫煙が立ち昇る。煙のにおいに私達一同が思いだすものはひとつしかなかった。「どうするのだ」低く鋭い声と、殿の非情な言葉に尊奈門は肩を震わせ嗚咽した。

「小頭の命は誰にも奪わせません」

nameが静かに口を開く。

「当人がそう望んでもか」

煙りをnameに吐きかけるようにして殿は訊く。

「はい」

「それは己らの自己満足ではないのか」

「それでも、です」

私が口を差し挟む余地などなかった。強い決意をnameの瞳の中に見たのだろう。「山本、万事お前に任せる。ただし仕事に関して手を抜くことは許さん。以上だ」そう申し渡して殿は腰をあげた。「あやつも随分と慕われておるな」ふ、と小さく笑んだ殿に肩を叩かれ、私は無言で頭を下げた。

「覚悟はできているということだな」

殿のいなくなった上座をいまだ見つめているnameと、洟をすすっている尊奈門の肩を抱く。こくんとふたりは肯く。それで十分だった。
翌日から、明るいうちは尊奈門が、日が暮れた後はnameが引き継ぎ小頭の看病をおこなった。忍務がない日であればnameは尊奈門と一緒に部屋に詰め、包帯や敷布の洗濯だけでなく医者の使い、薬草採集までありとあらゆる仕事をこなした。するべき仕事は山ほどあった。
だが一番辛かったのは、やるべきことを終え、仕事の合間に小頭の傍らにただ控えている時間だっただろう。一番、なんて優劣がつけられる状態ではなかったにせよ、だ。朦朧とする意識が何かをきっかけに覚醒すると小頭は獣のような呻き声をあげて爛れた身体を掻き毟しりのたうちまわった。その壮絶すぎる光景は、初めて目の当たりにした尊奈門が気を失うほどだった。大人の私ですら、目と耳を覆ってしまいたかった。決意を示したとはいえ尊奈門はまだ十の子供なのだ。けれど彼は音をあげなかった。泣きながら、医者に手際の悪さを叱られながら、日に何度も汚れた包帯を洗っては干し新しいものを部屋まで運んだ。
尊奈門の父親も負傷していたものの怪我の程度は小頭ほどではなく、彼は村で療養をしていた。城に詰めっぱなしだからお前もお父上のお加減を見てきなさいと勧めると尊奈門は力なく首を振った。「父上はわたしが戻るといつも泣いて詫びるのです。私など死ねばよかったのだとわたしにすがるように泣くのです。そのような父を見るのはつらいです。それに、」尊奈門は唇をかみしめる。「雑渡さまに生きてほしいと願うわたしに、死ねばよかったなどと言う父上など、だいきらいです」握った拳が震えていた。諸泉どのとそっくりな太い眉をぎゅっと寄せて、尊奈門は全身で怒っていた。

「尊奈門、お前の気持ちはわかる。しかしな、お父上だってお辛いのだ」

そう言った私に尊奈門は「でも」と言い掛ける。それを制して私は続けた。

「私もお前のお父上と同じだったのだ。それに私の場合、私をかばってくださった組頭、いや、前組頭は帰らぬ人となってしまった」

「……それは、雑渡さまの、お父上のことですか」

「そうだ」

私も、何度自分が死ねばよかったのだと悔い、己を責めたことだろう。何度雑渡さまに謝罪の言葉を述べただろう。自責の念だけでなく周りから向けられる白い目や、逆に痛いほどの気遣いに追いつめられ、死のうとしたことだって一度や二度ではない。自分だけがのうのうと生き残っていること自体が罪だと思った。私などいなければよかったのだ。こんなとるに足らない凡庸な忍びを、何故組頭は助け生かそうとしたのだろう。
「お前が死んだら、お前を助けた父上の気持ちはどうなる」白昼の妄想で、夜の夢で、自分を殺し続けた私に向かって雑渡さまはそう言った。「生きろ、山本」私の肩を叩いて笑った雑渡さまはあまりにも眩しく、その時私は初めて悲しみではない涙を流した。それ以来小頭は右腕として私を使ってくださった。身を粉にして働くことで私は自分の業を背負った。命は小頭に預けた。後悔がないと言えば嘘になる。しかし生きることにもう迷いはなかった。
私と同様、尊奈門も少なからぬ業を背中に背負わねばならぬ。そのちいさな背中に。酷なことだと思う。けれど幼い尊奈門が城に詰め小頭の看病をすることで、諸泉どのに対する村の者や忍軍の者からの風当たりが弱くなっているのは事実なのだ。私は尊奈門の後ろに立ってやることしかできない。彼の前に立って風よけになってはやれぬ。それはお前が受け止めねばならぬ風だから。私にしてやれるのは、二本の足で懸命に踏ん張っている尊奈門が倒れぬように背後で支えてやることだけだ。
私の昔話に耳を傾けていた尊奈門は神妙な面持ちで私を見上げた。「明日明後日と村に帰るといい。こっちのことは私に任せなさい」諭すように言えば「はい」とはっきりとした返事が返ってくる。真っ直ぐな子だ。私は隣に座っている尊奈門の頭を撫でてやらずにはいられなかった。
小頭が伏せっている間、狼隊の指揮は小頭代理として私が執っていた。このような状況だからといって仕事が減るわけでもなく、目まぐるしく変わる情勢に対応すべくどの隊も日々奔走していた。忍務が舞い込むとnameは進んで加わったが、ふっくらとしていた頬がおもやつれしている様を見れば彼女がどれだけ過酷な日々を過ごしているか容易に想像が付いた。しかしnameは忍務を決してしくじることはなく、それどころか彼女の忍びとしての腕前は磨きがかかる一方であった。

「きちんと寝ているか?」

「それなりに。お気遣いありがとうございます」

笑って言うが、目の下にはうっすらとクマが浮いていた。「日が暮れるとnameさまが来てくださるのですが、夜が明けて私が戻るときもまだ起きているのです」nameのことを心配する尊奈門は「nameさままで倒れられたら」と不安げだった。明らかに過重労働だった。「尊奈門が村から戻ったらお前も一度家に帰るといい。少し羽を伸ばしておいで」nameに提案するもすぐさま首を横に振られ、「私は雑渡さんのお傍にいます。むしろ山本さんの方こそお疲れなのでは?奥さまに会いに戻られたらいかがですか」と言われる始末。非番であったにもかかわらず書かれた報告書を私に手渡したnameは、その足で小頭の部屋に向かう。
衛生上の都合で小頭の部屋に入れる者は限られていた。私も滅多に入ることは許されなかったので、その部屋でいったいどのようなことが起こっていたかについてはnameと尊奈門そして医者より聞くほかはなかった。医者から毎日容態の報告は受けていたが当然のごとく芳しいものではない。
そして小頭の容態の次に私が気にしていたのはnameの様子であった。
nameには陣内左衛門がついているので大丈夫だとは思うが、彼だってnameにしてやれることなどほとんどないだろう。忍務で共になるときのふたりはこれまでと変わらぬように見えたが、陣内左衛門のnameを見る目には彼女への気遣いがうかがわれた。「私はnameさまが涙を流すところを見たことがありません」と尊奈門が陣内左衛門に話しているところに出くわしたことがある。私は泣き虫なので、nameさまを見習わねば。そう唇を引き結ぶ尊奈門の眉は早々に八の字になっていた。「だがな尊奈門、泣きたいときに泣くというのも大切なことなのかもしれんぞ」縁側に座った脚をぶらつかせ、陣内左衛門がぽつりと言ったのが聞こえてきた。涙すら枯れたのか。それとも泣き方を忘れてしまったのか。自らが望んだこととはいえ看病の日々はやはり相当に辛いのだろうと、その時の私は思ったのだった。
普段は日が暮れると小頭の部屋にやってくるnameは、部屋に入るとまず花の水を替え、花が少しでも萎れようなら新しいものに差し替えた。そして医者から教わった通りに包帯を替え薬を塗り、滲んだ膿を丁寧に取り除き、時々水差しで水を口に含ませ零せば拭いた。突発的に痛みの発作が起きれば舌を噛まぬよう布を口にかませ手を握り、小頭が殺せと口走るとたとえ届いていなくとも「生きてください」と言い聞かせるように繰り返した。
なにより私が胸を痛めたのは、枕元にたたんで置かれてある忍び装束を、nameが二日に一度は洗って干しているという話であった。袖を通す者がいない服を洗ってどうする。ただでさえ忙しいのにいらぬ仕事を何故増やすのだと居合わせた殿が聞いたらしい。nameは笑って答えたそうだ。「こうしておけば、いつ着ることになっても困りませんから」と。小頭は意識もまだはっきりとせず、起き上がれもしないというのに。殿はどのような目をnameに向けたのであろうか。nameの屈託のない笑顔を思い浮かべ、こみ上げてくる涙を抑えることができずに私は目頭を押さえた。
その少し前に、珍しくおだやかに眠られている小頭の枕元でnameと膝を並べたことがあった。おいたわしい姿に私は「強いお方であったのに」とちいさく上下している胸元に目を落として言ったのだが、nameは「それは違います」と穏やかに否定をして私を見た。「雑渡さんは今でもお強い方であられます。毎日、こんなにも頑張っているんですから」そう言うと「ね、雑渡さん」と小頭に微笑みを向けるのだった。私は知らぬ間に小頭の強さを過去のものにしていたのだ。
「山本、強くなるのだ」私を助けた組頭が今際の際に私の手を握り言った言葉を思い出す。強さとは、武器を手にして戦う強さだけではない。己に負けぬ強さ、誰かを守るための強さ、信じる強さ。組頭、今ならあなたの残した言葉の真の意味がわかるような気がします。
桶の水を変えてきますね、と笑顔のままで桶を持ちnameは部屋を出た。残された私は小頭の手を取り、額をつけた。「どうか、どうか」神に祈るなど馬鹿げていると小頭は言うかもしれない。けれど私は祈らずにはいられなかった。

「昆奈門、お前が隊に戻る日を、私は……いつまでも待っている」

私の震える声は静寂に吸い込まれていった。

月日は流れ、緩やかではあるものの小頭の怪我は快復に向かっていった。会話も可能になり、半身を起こせるようにもなった。とはいえ負った怪我が怪我であるので一進一退といったところで、身体を起こせる日が数日続いたと思えば天候の悪い日などは火傷の痕が痛んで寝ているのも辛いといった状態になる。そんな時は決まって弱音を吐かれるので、ついている者はなにかと気を逸らしてやらねばならなかった。
nameは毎日の出来事を小頭に話しているらしい。忍務のこと、村の田畑の事、その日の天気、城をめぐる情勢、鍛錬の内容、食事の献立、城下での出来事、仲間内でした世間話。部屋で伏せっているだけの小頭と外の世界とのつながりを絶たぬようにしていたのであろう。はじめのうちは「そんな話は聞きたくない」と塞いでいた小頭も、いつしか彼女の話に無言で耳を傾けるようになったという。
晴れの日も、雨の日も、部屋の障子は必ず開けられた。nameも尊奈門も思うことは同じだったのだろう。時には花を、時には虫を、また時には木の実や色づいた落ち葉、雪玉を持ってきては小頭の枕元に置く。小頭はそれを遠い眼差しで眺めていた。
身体が動くようになってからは縁側で庭先を眺め、歩けるようになれば庭におりて草花を眺める小頭の傍らにはいつも尊奈門とnameの姿があった。
小頭に持ち上がっていた何度目かの縁談は此度の怪我によって破談となった。今度こそ上手くいくであろうと思っていただけに、周りはひどく落胆したが、風の噂で置物にもならぬ忍びなど必要ないなどと相手側が言ってきたと聞き、相手を責めるのは間違っていると思いながらも破談になって良かったのだと私は密かな思いを抱いたのだった。ここには小頭をそのように切り捨てる者などいない。当初こそ皆懐疑的だったとはいえ、今では皆が小頭が戻ることを信じている。
三年余、果てしないと思われた時間だった。目覚ましい快復を遂げた小頭は血の滲むような努力をされ戦列に復帰、さらに三年後、とうとう組頭にまで上り詰めることとなる。
狼隊だけでなく、忍軍全体、はては忍びの村の者皆諸手を挙げて喜んだ。nameと尊奈門の喜びようは筆舌に尽くしがたく、また小頭、いや、組頭もふたりには殊更感謝の意を表された。
このようにして長い夜は明け、タソガレドキ忍軍は新たな出発の時を迎えたのだった。
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