タソガレドキ忍軍の昔話

初陣に向け私とnameが鍛錬に励む中、小頭の父君である組頭が身罷られた。部下の不注意をかばってのことだった。組頭が庇われたのは山本陣内どの、私の烏帽子親を務めてくださったお方であった。決して実力がないわけではない。俄には信じがたいが、それでも一瞬の隙があったのだろうか。山本さまの心中が如何ばかりだったのか私には知る由もない。小頭は涙を見せるでもなく、山本さまを責めるでもなく、ただ「しょうがないよね」と仰ったそうだ。亡骸は丁重に葬られ、村は悲しみに沈んだ。組頭不在であれど戦は差し迫っており、各々は悲しみを胸に秘め与えられた忍務を無心でこなした。次期組頭の座を誰に据えるかの合議が連夜各隊の小頭たちの間で執り行われ、ひとまず次の合戦が終わるまでは組頭不在のまま各隊の小頭が連携し指揮を執るということに決まったらしい。
工作部隊は最終の下見のため戦場に赴いており、演習場に来ている者はほとんどいなかった。nameは今日も最後まで居残るつもりらしい。柵に腰かけnameの鍛錬の様子を遠くから眺めていると、小頭がやってきてnameに何やら話かけている。何度か小さく頷いたnameに「それじゃ」とでも言ったのだろう、小頭が右手を上げた。しかしnameがその手を掴む。小頭を見上げるnameの瞳は真剣そのもので、小頭は両手を肩の高さにあげて右手の人差し指を立てた。
ふたりは向かい合う。どうやら一本勝負の稽古をつけてもらうらしい。結果は目に見えている。いつもそうなのだ。小頭の姿を見つけるとnameは絶対に勝負を挑む。何度負けても決してあきらめない。私も小頭に稽古をつけてほしいと思えど、ただでさえお忙しい身なのに私などに時間を割いていただくのも申し訳なく、彼女のように押せ押せの態度で稽古を申し出ることなどできるわけもなかった。
私が苦無の柄尻に指を掛けくるくると回している間に勝負はついた。背後をとられたnameの喉元には小頭が手にした木の枝が触れるか触れないかの距離で押し当てられている。ふたりの影が重なって、長く伸びていた。やがて影はふたつになる。山に帰る烏が夕焼け空に黒い点となって飛んでゆく。小頭はnameの頭を撫でると私にも手を振る。私は頭を下げるも、小頭の後ろで俯いたまま微動だにしないnameから目を逸らすことができずにいた。

「小頭にはどうやっても勝てない」

私の隣に並んで柵に腰かけたnameは心底悔しそうだった。

「当たり前だろう。いくらnameが強くとも、まだこれから初陣だというお前に小頭が負けるわけがない」

正論だというのにnameは納得のいかない顔をして地面をつま先で蹴った。小頭はこれからまだ用があるということで城へ行かれた。

「明日、かぁ」

「なんだ、緊張してるのか?」

「してる」

てっきりしていないと答えるかと思っていたので私は咄嗟に「何故」と聞いてしまった。「敵をあなどるなかれ」そんな基本中の基本を忘れたの?と言ってnameは首を竦めた。言われてみればnameは強いがその腕に自信があるという素振りは決して見せない。年齢と性別が故の謙遜かと思っていたがどうやらそうではなかった。年嵩のものに勝った時でも気になった点や直した方がいいと思われる点を必ず聞いていたし、私に対してもその態度は同じであった。刀の腕だけは月輪隊に所属している父に昔から教えられていたこともあり、私の方がnameよりも多少は秀でていたためふたりで向かい合って稽古をすることも少なくなかった。しかしいつも勝敗は五分五分で、大抵どちらかの手に力が入らなくなって稽古が終了するのだった。木刀を取り落とし震えている自分の手を見るnameは、どうしてこの手が木刀をもう握れないのか理解できていないといった表情を浮かべ「まだやれるのに」と悔しそうに言うのだった。「稽古ならまた明日やればいい」慰めのつもりで言った私に、nameは色のない目を向けて静かに言った。「もしこれが実戦だったら、明日なんてないんだね」と。
だから彼女は迷いもせず、緊張していると答えたのだろう。ひとつでも何かを間違えれば明日は来ない。それは自分自身の明日であるかもしれないし、仲間の誰かの明日であるかもしれない。私は、自分の身は自分で守れるようになったっだろうか。誰かの手を煩わせることなく、忍務を遂行できるだろうか。まめのできた手の平を膝の上に乗せて眺めていると、nameの手の平が重ねられる。

「陣左、がんばろうね」

「ああ」

nameの手をそっと握って頷くと、背後の方から「高坂さまーnameさまー」と間の抜けた声が聞こえ、振り向けば尊奈門が短い足で駆けてくる。

「みんな集まるようにとのおたっしです!」

両足をつけ背筋をピンと伸ばした尊奈門は重大な忍務を遂行したかのような顔をしている。おおかた使いを頼まれたのだろう。「ありがとね、尊ちゃん」nameが尊奈門の頭を撫でると「えへへ」と尊奈門は嬉しそうに笑った。「では行くか」尊奈門を真ん中にして私たちは家路につく。

翌朝は晴天だった。忍び装束に身を包み、小隊に分かれて出発する。nameと私は同じ小隊に編成された。「きみたちはふたりでひとつみたいなところがあるからさ。今日は初陣だし、そのほうがやりやすいかと思って」と私とnameを指さして小頭は目を細くした。頑張んなさいよ、と肩を叩かれ、私もnameも「はい」と声をそろえた。
結果として、私たちの初陣は無事に終了した。
nameの、おかげで。
もしあの場で彼女が私を助けてくれなかったら、無事に初陣を済ませられたのは私たち、ではなく、nameだけになっていた。
戦場、敵陣と味方の陣地を何往復かしたのち、敵陣の奥深くに忍び入っていた私とnameは四人の敵と交戦していた。互いにひとりずつを倒し、一対一での睨み合いとなる。最初に仕掛けたのは私だった。背中の忍刀を抜き間合いを見定めながら詰めてゆく。背後ではnameも激しく交戦しているのか、刃と刃がぶつかり合う金属音が鋭く響いている。「余裕そうだな」意識が背後に移った、いや、移ってなどいやしなかった。それでも相手はそれを見抜いていた。甘くなった脇を突かれ私は防御のために体勢を崩す。地面に左手を突き、太陽を背に忍刀を振りかざす男の脛を蹴ろうと足を振りかぶった。
ぎらり、と刃が太陽に輝く光が瞳孔を突き抜けて網膜を焦がした。恐るべき速度で、止める間もなく記憶の蓋を結わえてあった紐が解ける。八年前のあの日の記憶が渦となって現在の私をのみ込んだ。音が、消える。自分のまわりの景色は緩慢に流れ、私はいつの間にか五歳の子供に戻っている。圧倒的な恐怖と痛みの記憶に支配され、身体が動かない。瞳孔は開き、焦点はどこにも結ばれない。喉がからからに乾いている。
違う、違う!あの日から前に進むために私はここまでやって来たのだ。nameと共に。小頭の誇りとなれる忍びと成らんが為に。
奥歯を噛み締める。ここで、死ぬわけにはゆかぬのだ。

「陣左、」

初雪のような声に、曖昧だった視界が急速に鮮明になる。背中を下から斬り上げられたらしい男は断末魔の代わりに血反吐を吐いた。見上げるとnameは彼女の美しいかんばせを血で汚して立っていた。それを拭うこともせず、nameは忍刀を鞘に納めると私に手を差し出した。

「もう大丈夫だよ。立てる?」

「……すまない、助かった」

ありがとう。俯いて礼を言う私にnameは頭巾の口元を下げるとニッと歯を見せた。
置いていかれた、あるいは先にゆかれた、と感じ、そのように思った自分を私は恥じた。自分の身を守るどころではなかった。ともすれば、nameまでもを巻き込んでいたかもしれないのだ。私の足取りは重たかった。
前線の戦況を確認し、小頭に報告に戻ると「もうすぐ決着が付くと思うからひとまず待機ってことで」と下知をいただく。小頭の言う通り半刻足らずで敵方の撤収の合図が鳴り、味方の勝鬨が青空にあげられた。

「初陣お疲れさま。私は城に報告に行くのでまた今度ゆっくり話聞かせてね」

戦の前と同じように小頭は私たちの肩を叩いた。軽く叩いたであろうはずなのに私に負い目があったからか、ずしりと重たく感じる。おそらく何かあったであろうことを小頭は察している。だから、わざと私の肩を「軽く」叩いたのだ。気にするな、ということなのか、それともその逆なのか。考えることが多すぎて、村に帰りつくまでの間の記憶はほとんどなかった。尊奈門がはしゃぎながら父親に肩車をされていた。私は父に何と言えばいい?無理を言って狼隊に入れていただいたのに初陣がこのザマだ。まっすぐ家に帰る気にはなれず、どこかで少し気持ちを整理してからにしようと道を外れる。

「帰らないの?」

走って後を追い掛けてきたnameに腕を掴まれる。

「もう少ししてから帰る」

拗ねた子どものような言い方になってしまったのがきまり悪く、「nameは戻らないのか」と言ったのが今度はやたらつっけんどんで、俺はその場に蹲った。「じ、陣左?!大丈夫?」しゃがみ込んで俺の顔を覗くnameは「じゃあさ、反省会しようよ」と言って私の手を引く。

「とっておきの場所だよ」

つれてこられたのは村を出て裏山を少し登ったところだった。せりだした大岩が沈み始めている太陽に赤く染まっていた。はい、座ってどうぞと勧められるまま腰を降ろす。私の前に立つnameはうーんと伸びをした。その腰の細さに驚く。腰だけではない、首、手首、足首。狭い肩幅や薄い背中。茜色の光にぼんやりと輪郭を滲ませるnameが女であるということを、私は今この瞬間はっきりと認識した。
女に、私は助けられたのだ。別にnameを、女を卑下しているわけではないが、そもそも女という生き物は男よりも優劣で言えば劣なる存在で、庇護の対象物なのだ。女の方が強いという場面などいくらでもあるだろう。しかし戦場においてそうであってたまるものか。砕け散った矜持の破片が胸を裂いて血が流れ出す。nameは強い、確かに強い。が、私だって。慢心とは違う、男の意地のようなものが今日の己の愚行を再び責めたてる。

「あの時の記憶が蘇った」

「うん」

「何故お前は……いや、それはnameが強いからか」

「ねえ陣左、私は強くなんかないよ。少しは強いかもしれないけど、強くなんかない。私が目指すべき場所にいくにはこんなんじゃまだまだ足りないの。全然だめなの」

色の変わり始めた空を睨むように見ているnameは、今にも泣きだしてしまいそうだった。けれどnameは涙を流すことはしなかった。
あの日以来、私はnameが泣いているところを見たことがない。どれだけ辛かろうが、どれだけ痛かろうが、どれだけ悔しかろうが決して涙をこぼさなかった。大きな目にたっぷりと溜められた涙がこぼれそうになるたびにnameは血が出るまで唇を噛んだ。幼い時はそれでよく唇を腫らしていた。泣いても何も変わらない。泣いている暇があれば鍛錬をする。それほどまでにnameを突き動かしひっぱてゆく小頭という存在は、彼女にとってどれだけ大きなものなのだろう。
ひと言で言ってしまえば小頭は私たちの命の恩人であった。命の恩人であり、目指すべき背中。私とnameの思いは重なって未来へ続いているはずだった。
そうではないと気づき始めたのはいつごろっただろうか。nameは私よりもずっと熱のこもった目で小頭を見る。全身で存在を浴びようとしているみたいに。彼の教えは忠実に守り、鍛錬での助言は真摯に聞き入れ完璧に身に付けた。
小頭に縁談が持ち上がっているという話を父から聞いたのは私たちが狼隊への入隊許可を受けた頃と同時期のことだった。その時私は何の気なしにnameにその話をした。「本当に?!おめでたいね!」と手を打ってnameは喜んでいたので、私は彼女の小頭に対する感情が憧れしかないものだと思っていた。もしかしたら、と勘繰る余地すら与えぬほど、nameは小頭のことを神でも敬うかの如く敬慕していたのだから。
恋慕や情愛など差し挟む間など寸分も見当たらなかったのに、ひとしきり喜んだあと、nameは下唇を噛んでいた。恐らく、無意識に。私は見てはいけないものを見たような気がして慌てて目を逸らし、話題を別の事柄にすり替えた。name自身、深層に秘められた感情に気が付いていないのかもしれない。それほどまでに、唇を噛む動作が自然だったのだ。感情を取り繕うことなど、彼女にとっては造作もないことだというのに。

「謙遜か?それとも慰めか?」

そうでないことなどわかっていたのでnameは笑った。

「とりあえず、明日も鍛錬できるしよかったじゃない」

「鍛錬、か。なぁname、お前はどうなりたいのだ?どこを目指して己をそこまで鍛える」

ざわざわと木立が揺れる、nameの髪が風になびいた。顔にかかった髪を耳にかけ、立ったままのnameは私をゆっくりと振り返る。静かに光る眼。私はそのような質問をするべきではなかったのだ。

「私は、雑渡さんよりも強くなりたい」

しん、とあたりが静まり返る。こいつは、今なんと言った。驚愕して二の句が継げないでいる私をよそにnameは続ける。

「雑渡さんは確かに強い。でももっと強い敵がさし向けられたら?雑渡さんよりも強くなくちゃ彼を守れない。あの日雑渡さんが私を救ってくれたように、雑渡さんに万が一そういう時が来た時、私は絶対に彼を守りたいの。死んでも構わない。命なんか惜しくない。でも命がなければ戦えないから。だから私は死なないためにもっと強くならなくちゃいけないの。たとえ女だろうとそんなの関係ない。女だから、なんて誰にも言わせない。女のくせにって、言わせるぐらい強くなる」

なんということか。私など、敵うはずもない。傾きかけていた太陽は知らぬ間に高度を大きく下げていた。黄昏時の空を背負ったnameは、濃い夕日によって影に変わる。すぐ目の前にいるはずなのにひどく遠くに感じ、このまま私の知り得ぬ場所に行ってしまいそうな気がして私はnameの手を咄嗟に掴んだ。

「ならば私も強くなる。このようなことを言うと怒るかもしれないが、女であるお前はきっと、きっといつか男には敵わぬときがやってくる。もしそうなった時、お前を守れるように強くなる」

約束だ。nameを掴む手に力を入れる。沈む間際、壮絶に空を燃やしながら太陽は地平線へと姿を消した。影になっていたnameの姿が元に戻る。

「陣左がいてくれて、よかった」

nameは泣きそうな顔で、笑っていた。心からの言葉が嬉しいはずなのに胸が痛むのは何故なのだろう。私の方が、泣いてしまいそうだった。
私の家にnameの父上と兄上がきており、皆で夕餉と相成ったのだが事の顛末をnameが冗談交じりに報告するので私は父にこってりと絞られた。「あれだけ大見え切っておいて」とこめかみに青筋を立てる父に、nameは「でも、陣左はこれからもっと強くなりますよ」と酒を注ぐ。「そういえば高坂どのも遅咲きであったな」と顎に手をあてるnameの父上に「なにを、そちらこそ私に何度助けられたことか。耄碌するにはまだ早いと思うが、まさかお忘れですかなぁ?」と応戦する我が父。「そうなのですか?」と親たちの昔話に興味津々で身を乗り出しているnameに互いの父は鼻息荒く昔語りをはじめてしまう。
囲炉裏では魚がいい具合に焼け、具の沢山入った雑炊がぐつぐつと音をたてている。まずは食べねば。酒の飛沫が飛び交う中、私はひとり椀に粥をよそって匙を手に取る。
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