タソガレドキ忍軍の昔話

わたしのせかいは、きらめきでみちていて、そのきらめきのこんげんは、ほかのだれでもない、ざっとさん、あなただったのです。

私は忍びの村で生まれた。父も母も忍びのものだった。母は私を生んで三年後に死んだ。父は兄と私を男手ひとつで育てねばならなかった。
村はタソガレドキ領の東南、城から一里ほど離れた場所にあった。城下からそう遠くないといえど周りは鬱蒼とした森に囲まれており、森の中ほどの小さく開けた場所に数十戸の小さな家が立っていた。家や畑、小川のほかに、忍びの村に相応しく修練場がいくつもあった。屋内での稽古場、手裏剣や火器の練習場、城壁や櫓を模して造られた実地訓練場や水練に適した池等々。
幼い頃より一帯は遊び場であった。危険だから近づくなと言われることはない。幼くとも危険は身をもって知らねばならず、それができなくば世に名高いタソガレドキ忍軍の一員としてこの先生きてゆくことは不可能なのだった。
私の隣の家には私と同じ年の男の子がいた。あどけない顔つきにもかかわらず、凛々しい眉の持ち主だった。私の記憶の中で一番古い彼は、指をしゃぶっていたところ、焙烙火矢の爆ぜる音に驚いて泣きだした挙句、粗相をして蹲って誤魔化している姿であった。今の彼、つまり高坂陣内左衛門からはおおよそ考えられないことなのだけど。
同じ年の子供は私と彼のほかにはおらず、男女の差異など気にしない時分であるので、連れ立ってよく稽古場に赴いた。稽古場は多々あれど、私たちにとって一番の修練の場は森であった。なにより大人たちに邪険にされることもない。倒木を飛び越え、木の幹によじ登り、木の実や小枝を巻菱や苦無に見立てて投げ合った。どちらかが転べばどちらかが手を差し伸べ、喉が渇けば水場をふたりで探した。どれだけ遊んでも飽きることはなく、いつもぼろぼろになって家の戸を叩く私たちの顔は心地よい疲労と一日の楽しかった出来事で自然と笑顔になっていた。

その日は朝から良く晴れていた。朝食を済ませ鶏を追い回して遊んでいると、いつものように陣左が私を呼びに来た。「いくぞ!」と私の手を取り転がるように駆けてゆく。ただ走っているだけでも楽しくて、足がもつれて前のめりになるたびに声をあげて笑った。
森は静かで雄大だった。ちょうどいい長さの木の枝を手に、私と陣左は覚えたての剣術を互いに披露し合った。首筋に枝先を向けられ、私は枝を放り投げ両手を挙げる。降参!と言いながら胸元に隠してあったどんぐりをひとつかみして陣左に投げれば、眉間にどんぐりが直撃した陣左は「そんなのはズルだ」と言って唇を尖らせた。
こめかみに滲んだ汗を拭って、私たちは下草に腰を降ろす。土がひんやりと湿っていて気持ちがよかった。「よし、こんどはかけっこでしょうぶだ」と陣左が私の手を引いて立ち上がらせる。「まけないもん」と受けて立った私は立ち上がるや否や走り出す。けもの道を走り、あっという間に森の中ほどにある小高い丘に辿り着く。木はまばらで、青い空がよく見えた。ほとんど同着だったため勝負はつかず、陣左はめげずに「つぎはきのぼりだ!」とあたりにある中でとりわけ高い木を選んで指さした。
私たちは猿の子のように手足をうまく使ってするすると登ってゆく。父親に肩車をされるよりもずっと高い目線に、私たちは手と手を取り合って互いの偉業を褒め称えた。「こんなに高くまでのぼれたのははじめてじゃなかろうか」「鳥になったみたいだね」世界のすべてが見渡せる、誇張でもなくその時の私は心からそう思った。「村がみえるよ」「城もみえる」私と陣左は目を凝らして視界にあるもの全てを列挙し述べ合った。
異変に先に気が付いたのは陣左の方だった。「おい、name」と小声で私の着物の袖を引く陣左の声は強張っていた。陣左が「あれ」と顎で示す先に目を向けると、そこには見慣れない忍び装束に身を包んだふたりの忍びが木陰に身を潜めているのが見えた。

「なにやってるんだろう」

「おれたちの村をおそいにきた、とか」

陣左の言葉があまりにもおどろおどろしく聞こえ、恐怖が胸の奥からせり上がってくる。戦いが身近である、ということは生まれた頃より叩き込まれていたけれど、当時五歳だった私たちは実際の敵や血の流れる戦いをまだその目で見たことは無かった。よって明確な敵意を持って自らの平穏を脅かす相手、しかも私たちは子どもで向こうは大人だ、はこれだけ距離をとっていても私と陣左の指先を震わせるには十分な脅威であった。

「どうしよう、村のみんなにしらせないと」

「でも、あいつらにみつかったらころされてしまうかもしれないぞ」

「わたしが、いく」

「むちゃを言うな!わたしのほうがはやく走れる」

そう言うものの、私も陣左も知らぬ間に繋いでいた手を離すことができない。昼下がりの日の光が私たちの黒髪をじりじりと焼いていた。目下のふたりは何かを話し合っている。見る限り他に仲間はいないようなので、もしかしたら偵察に来ただけなのかもしれない。だとしても、村の大人たちにいち早く伝えることは義務である。
なぜなら私たちは、忍びの村の者だから。恐怖を抱いてはいけないと、風が耳元で囁いたのを聞く。

「ふたてにわかれよう。わたしは森をまっすぐぬける」

「いや、おまえはうかいしてゆけ」

「どうして」

「そのほうがみつかりにくい」

陣左の、幼い眉間に皺が寄っていた。男の矜持とまではいかずとも、きっと女である私を幼い彼なりに気遣っての発言だったんだろうと今になって思う。その時はなにもわからず、汗で湿った陣左の左手を強く握りしめ無言で頷くことしかできなかった。

「それでは、ゆくぞ。わたしが先におりる。おまえは三十かぞえたら木をおりろ」

そう言って、彼の手と私の手が離れる。急に熱を失った右手。心もとなさに不安が黒雲のように湧きあがる。兢々としながらも私は目を瞑り、心の中で数をかぞえる。まるでかくれんぼや鬼ごっこの鬼でもなったかのように。けれど今は、追われるとしたら自分の方。見つからず、村までゆかねば。にじゅうく、さんじゅう。目を開け私は地上を目指した。
足音を立てずに。背を低くして。気配をできるだけ消して。男たちと十分に距離は離れていた。それでも慢心は死に繋がるということを私は既に知っている。陣左は無事だろうか。陣左のことを考えると涙が喉元にこみ上げてくるので、私は頭の中を空っぽにして胸元に手をあてる。
懐には苦無が一本入ってた。父親のものをこっそりと拝借してきたのだった。父の目の届かない範囲で苦無を握ることはまだ許されていなかったけれど、私はたびたびそれを胸元に忍ばせ森に出た。切っ先が空を切る音が好きだった。私と陣左でどちらがより良い音を出して空を切れるか競い合って遊んだ。無論、上級の忍者はそのような音すら立てずに相手の喉笛を掻き切ってしまうのだけれど。
いいや、違う、音を立てないのではない、音など後についてくるのだ。相手の耳にその音が届くことは無い。迸る自らの血飛沫に、かき消されてしまうのだから。
あと十町ほどで村の入り口というところで、ふと風が止んでいることに気が付く。立ち止まるとあたりはしんと静まり返っていた。どこかで烏がけたたましく鳴きながら飛び去っていくのが聞こえた。撒けたのだろうか。木の幹に身を隠すようにして息を整えていた私は、背後から伸びてきた手に全く気が付かなかった。

「っ?!」

「もう一匹はお前だったか」

羽交い絞めにされ身体が宙に浮く。突然の出来事に頭が真っ白になり、男の言った言葉を理解するのに時間がかかった。もう一匹、ということは。私は悲鳴じみた声で陣左の名を叫ぶと森の奥から男が捕えた鹿の子でも持つかのごとく(むしろ、私は遠目にそれが本物の小鹿かなにかだと思った)陣左の足首を掴み、彼の身体を引きずりながら現れた。「手間かけさせんじゃねえよ」と憎々し気に吐き捨て、陣左を足蹴にする。暴力を振るわれたのであろう陣左は顔を腫らし、気を失っていた。
「こいつ、噛み付いてきやがった」私を羽交い絞めにしている男にそう言うと、私の頭上で下卑た笑い声が響く。「そりゃお前が油断したからだろう」けどな、と男は言うと私を地面に叩き付けた。草地とはいえ激しく地面に衝突した私は痛みのあまり呼吸を忘れる。「俺はたとえガキでも油断はしねぇ。お前、タソガレドキの忍びの村のガキだな。おおかた俺たちのことを報告しに行こうとしたんだろう?見つかったのが運のツキだな」私を見下ろす酷薄な瞳には胡乱な暗い光が満ちていた。
私は、殺されるのだろうか。そして、陣左も?
こんなところで死ぬのはいやだ。父の大きな手の感触が蘇る。お前は母さんの分も生きるんだよ。何度も、何度も繰り返された父の言葉。そして、さっきまで私の手を握ってくれていた陣左のあたたかくて湿った手。ぐったりと力ない陣左の顔面は蒼白で、けれど不思議と死んでいるとは考えなかった。私が陣左を村まで連れてゆかなければ。そうするためには今ここで、こいつらを殺すしかない。

「あのガキもお前も、俺たちが墓にぶち込んでやるから安心しな」

忍刀を手にした男が私に近づいてくる。私は起き上がるふりをして懐に手を入れ苦無の柄を握った。

「しぬのはおまえたちのほうだ!」

十分に間合いが詰められたのを見計らって私は地面を蹴り男の喉元目掛けて切り上げた。殺れるという確信はなかった。けれど殺らねばならぬと思ったのだ。
けれど苦無が相手に届くよりも前に呆気なく私の手首は掴まれてしまう。非情な力で握りしめられ骨が悲鳴をあげる音がした。腕が、折れる。それでも私は苦無をはなさなかった。
殺す、殺す。呪詛の如く繰り返すと男の目は憐れむように細められた。けれど口元に浮かんでいるのは嘲りの表情で、私の腕を掴む力はいっそう強くなった。手がしびれ、じりじりと身体ごと持ち上げられているせいでわき腹が酷く痛んだ。「はなさねぇのか、ソレ」顎で私の手の中の苦無を示す。「はなさ、ない」振り絞るように言うとみぞおちのあたりに衝撃を受け咳こむ。弾みで手から苦無がポトリと落ちた。

「おしまいだよ、嬢ちゃん。恨むならお前を忍びの村に生んだ親を恨め、あの世でな」

忍刀の切っ先が太陽の光を受けてきらりと輝いた。ああ私は死ぬんだと、ようやく悟る。せめて痛みを感じる間もなく逝けるといいと思い、私はそっと目を閉じた。
その時だった。
なぜか地面に尻もちを着いている私に与えられたのは痛みでもなければ死でもなく、どうどうと迸る生ぬるい血飛沫であった。私を殺そうとしていた男はぐにゃりと倒れ、既にこと切れていた。なにが起こったのかわからず、きょろきょろとあたりを見回すと、私に背を向け陣左の傍に立っていた男の背中から、赤く染まった刃がゆっくりと姿を現すところであった。

「タソガレドキの忍びに墓なんてものは無いんだよ。我々の柩は天地さ。そして、過去も無い、無論未来も、ね」

真昼だというのに、その男の言い放った言葉はあたりを一瞬で漆黒の夜に変えた。太陽を背にしているために表情はわからず、けれど双眸は白銀の月がごとく、彼の翳った顔の上で静かに光っているのだった。
刺し貫かれていた男の身体がびくんと跳ね、刀が抜かれると同時に噴き出した血で軌跡を描きながらそのまま仰向けに倒れていく。どさりという音がしただけで、その男が言葉を発することはもうなかった。

「大丈夫?」

懐から取り出した手拭いで私の顔にかかった血糊を拭くお方は、同じ村の若者だった。幼い私ですら名を知っている。

「ざっと、こんなもんさん」

私が彼の名前を呟くと、雑渡さんは「私のことを知っているのかい。こりゃ照れる」と悪戯ぽく笑った。今しがた人間をふたり殺めた者とは思えぬほど茶目っ気のある笑顔だった。
彼の父親はタソガレドキ忍軍の組頭を任されていた。「あのお方は本当に素晴らしい組頭なのだよ。息子の昆奈門くんもお父上に負けず劣らずの才能をお持ちなのだ」演習場で私を肩車してくれた父が指さすその先には、いとも容易く手裏剣を的の中心に命中させる雑渡さんがいた。飄々とした佇まいはまるで、流れる水の中を自在に泳ぐ魚のようだった。わぁ、と頭上で感嘆の声を漏らした私に、父は「だろう」とまるで自分の息子を自慢するような口ぶりだった。村の誰もが彼はいずれ父君の跡を継いで組頭となる、そう確信していた。雑渡昆奈門という男は、若くしてそれほどまでに人望と実力のある人だったのだ。

「歩けるかい?きみのお友達は私が運ぼう、って、アレ、高坂さんのところのおチビじゃないの。こりゃあ叱られちゃうかもね」

伸びている陣左を抱きかかえようとした雑渡さんは「あ、」と私を振り返り、

「よく頑張ったね、name」

と雑渡さんは私の名前を呼ぶと頭をわしわしと撫でた。父親とは違う、けれど優しくて大きな手だった。手の平の熱が頭のてっぺんからどっと私の身体の中に流れ込み、喉から下で氷のようになっていた緊張と恐怖をみるみるうちに溶かしていった。溶けたものは両の目から涙となって溢れ出す。わあわあと天を仰ぎながら大泣きする私の勢いに雑渡さんは少し押されながらも、なにも言わず、私の嗚咽が止まるまで優しく背中をあやしてくれた。そうするうちに陣左も目を覚まし、私と同じようにわあわあと泣いたので雑渡さんは「やれやれ」と言いながら陣左のことを軽々と抱き上げた。

「じゃあ、帰りますか」

右腕に陣左を抱え、左手は私の右手をとり、ゆるゆるとした足取りで雑渡さんは歩いた。「そういえばそろそろ諸泉さんところの赤ん坊が産まれるねぇ」雑渡さんの結んだ髪の先が歩くたびに揺れるのをこっそりと眺めながら、私は「とっても、たのしみです」と答えた。ともすれば忘れていた嗚咽がこみ上げてきそうだったので、こたえた声は自然と小さくなってしまったけれど、私も陣左も産まれてくる赤ちゃんをとても楽しみにしていたのだ。
諸泉の家は私と陣左の家の一軒隣に立っていて、おじさんもおばさんも私達によくしてくれていた。「おとこのこかな、おんなのこかな」とお腹に耳を当てる私に「どっちだろうねぇ。nameちゃんはどっちがいい?」と訊ね、すかさず私が「おんなのこ!そうしたらいっしょにおままごとするのよ」というとおばさんは嬉しそうに笑った。「おまえ、おままごとなんてしないくせに」と今度は陣左がお腹に耳をつけ「おとこのこならわたしがいっしょにけいこをします」と意気込む。「だってだれもいっしょにやってくれないんだもん、しかたないでしょ」と早くも赤ん坊のお姉さんになったような気持ちで言う私に「nameはにんぎょうよりくないのほうがすきだろ」と陣左がくってかかるので喧嘩になりかけたところを「じゃあおやつでも食べましょうか」とおばさんは腰をあげたので私たちは途端に言い争いなどどうでも良くなってしまう。「頼りになるお姉ちゃんとお兄ちゃんがいて、この子も幸せね」そうやさしく微笑んで、おばさんは大きなお腹を撫でていた。
村に帰りついた私達は父と母に涙ながらに抱き締められ、そして人生史上最大のげんこつを喰らったのだった。「無茶をするなとあれほど」「そもそも苦無を勝手に持ち出すとは」「敵のことを知らせに来ようとしたのは偉かったがしかし」あれこれと気ぜわしく小言を放つ私の父。雑渡さんは「女の子ひとりで大人の男ふたりに立ち向かったんですから、凄いもんですよ」と私をかばってくれるのだった。私の両親も、陣左の両親も、雑渡さんに何度も何度もお礼を言って頭を下げていた。命の恩人です、という言葉を聞いて私はまだ自分の口からお礼を言っていないことに気が付く。

「ざっとさん、わたしたちをたすけてくれてありがとうございました」

ぺこりとお辞儀をすると陣左もそれに倣った。

「いいよ、そんなの。恥ずかしいから」

ほら、顔あげて。雑渡さんは私たちの肩に手をかけた。雑渡さんの手が離れても、触れられた部分はいつまでもいつまでもあたたかいままだった。

「おーい!赤ん坊、産まれたぞー!」

村の奥から声があがった。おぉ、と歓声が上がり、私と陣左は浮足立った。

「一緒に見に行こうか」

雑渡さんは私と陣左の間に入ると、それぞれの手を取って歩きだす。半歩遅れて歩く私は雑渡さんの広い背中を眺めながら、今まで自分の中にはなかった感情が芽生えたのを感じていた。けっしてこの背中を見失わぬように。決してこの背中を、失わぬように。
緩やかなカーブを描いた道を、私と陣左は雑渡さんに導かれるようにして歩む。少し先から頼りない、けれど揺るぎない生命の力を漲らせた赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。

「元気だねぇ。こりゃ男の子かな」

雑渡さんがひとりごち、それを聞いた陣左はやったあと歓声を上げる。私は肩を落としつつ、それでも赤くて全体的にしわくちゃな赤ん坊の小さな小さな手や、一丁前に生えそろったやわらかな髪や眉毛を見てしまえば男だとか女だとかそんなことはもうどうでもよくなってしまって、かわいい!と何度となく繰り返すのだった。
かくして諸泉尊奈門はそのような出来事があった日にこの世に生を受けたのだけれど、産まれたばかりの彼は私たちの身に起こった出来事など当然知る由もなく、まだ何も知らないやわらかな両手を握りしめ、くりくりと愛らしい目をぎゅっと瞑って勇ましく泣くばかりなのであった。
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