タソガレドキ忍軍の昔話

nameの思いが通じたのだということは言われずとも察しがついた。血を分けた兄弟よりも長い時間を過ごしてきた仲なのだ。並んで立つnameと小頭の間には割っても割り切れぬ親密な空気があって、私はそれを壊さぬように距離をとる。壊すつもりはないのだが、まあ、なんとなく。
自分に持ち込まれた縁談は無くなった。相手の女が死んだのだった。流行り病だったらしい。その話を耳にしたnameは難しい顔をしてしばらくの間黙り込み、「残念だったね」とだけ言ったのだった。一方で私は、まだ顔も見たことのない相手だったうえに自らが望んでの話ではなかったため残念どころか何の感慨もわかず、ああそうなのか、と思っただけだった。流行り病で死んだのが、今こうして私の隣にいるnameでなくてよかったと安堵すらした自分を、薄情な人間であるのかもしれないと少々反省する。
ただ、順調に縁談が進み所帯を持ったらば私にもまた違った道がひらけていたのだろうかと思わないこともなかったけれど、妻に手を取られ子たちに囲まれる山本さんや諸泉さんを自分に置き換えて考えることはどうしてもできなかった。どれだけ思い描こうと努めても、ぼんやりとしたもやの向こうに人影ともいえないような輪郭が見え隠れするだけで、結局私はその作業を投げ出してしまうのだった。小頭に仕えて任務をこなし、nameや尊奈門と鍛錬に明け暮れる日々であったので、それ以外の事柄が自分の中に入ってくる余地など無かったのかもしれない。
忙しい日々の中で、自分に実ることなかった縁談話があったことなどいつしか忘れてしまっていた。
次の合戦場となりそうな場所の視察から帰ってきたnameはその足で稽古場までやってくると「陣左、いいお酒手に入ったからあとでやろうよ。どうせ暇でしょ」と、親指と人差し指で酒をあおる仕草をしてみせる。「構わんが暇は余計だ」ムッとした私の返事を聞くが早いがnameは「汗流してくるね」と言って軽やかな足取りで風呂へと向かっていった。
長屋の端の濡れ縁に腰かけて、私とnameは月を肴に酒をあおる。

「ねえ、良い話ないの?」

肩を小突かれ「ない」と即答すると「つまんない!」とname口を尖らせる。

「お前こそどうなんだ」

「私?私はべつに、なにも」

けれどその顔はゆるく笑んでいる。

「そうか」

「うん」

庭に植えられた桜の木は今が盛りと言わんばかりに花をつけている。月は満月で、夜とは思えない明るさだった。酒瓶を手に私に酌をすると「そんなんじゃ尊奈門に先越されちゃうんじゃない?」と肩を揺らす。

「そんなもの、先だとか後だとか競うものでもないだろう」

「でも、あの尊奈門に先越されるんだよ?なんであれちょっと腹立つ」

「お前、酔ってるだろ」

まったく腹など立てていない顔でへらりと笑ったnameは盃に残っていた酒を飲み乾すと仰向けに倒れ大の字になる。結んでいない髪が床板に広がった。長すぎるのは邪魔になるからと、背中のあたりまで伸びるとnameは髪を切ってしまう。髪を切るのはいつも何故か私の役目だった。私がどんな顔でnameの髪を切っているのか、こいつは一度でも考えたことがあるのだろうか。艶やかな髪が音をたてて切り落とされるたびに、私はnameの父上のことを思わずにはいられなかった。彼女の活躍を喜びつつも、本当ならば嫁に出してやりたかったと酔いに任せて嘆く姿を今でも見るのだと父が言っていた。

「見合いなど、面倒だ。そもそも小頭が結婚されていないのに私などがするわけにもいかないだろう」

「こじつけるねー」

声を出して笑うnameは「でも、面倒っていうのは、何かわかるかも」とぽつりと呟いた。

「あ、別に私には関係ない話だけど。もし、ってことね」

「……」

「色んな感情を背負うのは面倒。面倒?っていうか、うーん、大変」

「私は小頭のために全力で尽くしたいだけだ。余計な荷物は背負いたくない」

「そうだね、私もだよ。でもやっぱり、余計なものなのかな」

「さあな、知らん」

「少なくとも山本さんはそうじゃなさそうだけど」

「誰しもがそうなわけではない」

「誰かの荷物にだけは、なりたくないなぁ」

そう言ってnameは目を閉じた。誰か、か。しばらくしても起きないので寝てしまったのかと顔を覗き込む。寝ていたと思っていたnameが目を開け「狸寝入りの術でしたー」と首に腕を回すので、酔っているとはいえ私は腹立たしい気持ちになる。

「はなせ」

「えー陣左冷たいー」

「そういうことがしたいのならば小頭のところへ行けばいいだろう」

「……」

nameを剥がして私は盃を取る。nameはごろんと床に横向きになり、私の着物の帯紐をいじりながら細いため息をついた。

「怖いの」

「何がだ」

「私が私でなくなってしまいそうで」

馬鹿だな、と思った。それが恋というものなのだ。「いけないのか」と問うとnameはわからないと首を振る。

「今でも自分が女であることを悔いているか?」

「……どうだろう。半分半分、かな」

膝を抱えて丸くなっているnameの髪に触れる。褥の中でこの髪がどのように撫で梳かれているのだろうか。私によって切りそろえられたnameの髪を小頭の長い指が梳くところを想像すると、言いようのない感情が背筋をやさしくくすぐった。かつて私が夢見ていたこと。nameの髪を梳く小頭の姿は想像に容易いというのに、裸になって臥したnameの髪を梳く己を想像するのは所帯を持った己を想像するよりも難しい。こんなにも近くにいて、今こうして実際に髪に触れているというのに。

「私は、女だてらに強いお前が好きだった。無謀で、向こう見ずで、時に危うい表情を見せるお前が、」

酔いが回ったのだ。そういうことにすればいい。nameは無言で私の言葉を聞いていた。
確かに私はnameを女として好いていた。それは紛れもない事実だった。けれど、nameの視線の先にいるのはいつだって小頭たったひとりであった。nameは言っていた。「こんなに近くにいるのだから、これでもう十分なのだ」と。その通りだった。愛し合うには近すぎた距離。いつだって触れ合えるし、触れ合ってきた。そしてnameと小頭の親密さを目の当たりにした時、私の気持ちにようやく区切りが付いたのだった。私はそれを自覚せざるを得なかった。

「誇りに思えよ」

お前の強さを、お前のうつくしさを。
火照った頬を夜の風が撫でる。酒が美味い。ほろ酔い気分ですっかり軽くなった心持ちの私はひとり笑む。

「ありがとう」

風に吹かれた桜の花が私たちのところに飛んでくる。「ねえ陣左、こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、私、陣左のこと大好きだよ」指先が触れる。「知っている」nameの予告通り腹が立ったがむしろ清々しく、「知っているさ」と私は繰り返す。手を握ることに躊躇はなかった。やさしい春の夜に舞う桜はまるで遣らずの雨だった。桜を香華として土をかぶせた初恋はきっと、埋め火のまま私の中で生き続けるのだろう。
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