タソガレドキ忍軍の昔話

私はなんと答えればよかったんだろう。というよりも、なんで雑渡さんは私なんかに口づけたのだろう。触らなくても頬が熱を持っていることがわかって、それがわかると余計に恥ずかしくて、逃げ出したいのに手首を掴まれているせいでそれもできない。雑渡さんとこうしたいと、心のどこかで願っていたのではないのか。それなのに逃げ出したいなんて思ってしまうのはどうして。
目の前にいる雑渡さんは、ひとりの男の人として私の目に映る。途端に私は無力になってしまったような錯覚に襲われる。いっそ泣きだしたいぐらいだった。昨日の一件以来私の涙腺はどうかしている。ことあるごとに涙が出るのだ。これまでの長い年月どうやって涙をこらえていたのか、もうわからない。
手の届かない憧憬で終わらせられれば良かった。憧憬に混じった恋慕の情が私の心を塗り替えた日、捨てたはずである「女である自分」に背後から肩を叩かれた。逃げられるとでも思ったの?と媚びた笑みを浮かべてもうひとりの私は笑って言い、弧を描いたままの唇を私の唇に押し付けた。梅の花が香る庭で「手、引いてくれないの」と言った雑渡さんは、どちらの私に話しかけていたのだろう。「どっち、じゃないわ。私はあなたよ」くすくすと忍び笑いが耳元で響き、ほのかな花の香りを残してもうひとりの私の気配は煙りのように立ち消えた。
その背に触れたいと伸ばし続けた腕で、雑渡さんを抱きしめたいと願うことはいけないことだと思っていた。雑渡さんに抱く感情は高潔であるべきだと思っていた。けれど雑渡さんのために強くなりたいという願いも、雑渡さんをほしいと冀うことも、どちらも心からの願いなのだった。相反するふたつの間で揺れ続けた長い年月。結局、私は。

「私は、どうしたら、いいんですか」

「nameはどうしたい?」

雑渡さんが私から手を離す。私は、わたしは。お日様には触れられないし、月は遠い、そして星だって、手を伸ばすばかりで光だけが指の隙間から零れ落ちる、はずだった。そろそろと雑渡さんの胸に触れようと試みる。これまでほぼ毎日のようにじかに触れてきたというのに、着物の上から触れることが躊躇われてあと少しの距離で手が止まる。わずかな距離の向こうから、雑渡さんの体温が空気を伝って私の手の平に届く。そっと、手の平を心臓の上に置くと、彼の鼓動が私に流れ込む。この音をもっと、近くで感じたい。私は耳を胸につけ目を閉じた。絶え間なく刻まれる心臓の音を私は全身で享受する。鼻の奥がツンとして、喉が苦しい。涙腺が馬鹿になってしまったみたいだ、と思っているそばからじわりと涙が滲んだ。涙を悟られるのが嫌で私は雑渡さんに腕を回す。ああ、あったかい。包帯を巻いていたから彼の体格について知ってはいるけれど、包帯を交換しているときよりも胴回りが大きく感じられた。
そのときふと、身体の中心からこんこんと湧きだす泉の存在に私は気が付く。指先を澄んだ水に浸すとひんやりと心地よく、けれど不思議とそれは私の指をあたたかくするのだ。水の色は透明で、けれど光の当たり方によっては水色にも薄桃色にも、やわらかな黄緑色にも見える。飽きることなく指先で水を遊ばせている私はいつの間にか自分が水中にいることを知る。口からはいたあぶくが、水面に向かって形を変えながら昇っていくのを眺める。そこでは何もかもが自由だった。水泡が肌を掠めるたびに私の名を呼び、水面から差し込んでくる光の筋が私を誘う。
顔をあげ雑渡さんを見る。好きだ、と、ひと粒涙が落ちるのと同時に私は心から思った。この人のことが、好きだ。
だから私の唇を塞ぐ雑渡さんから逃げることはしなかった。左端が火傷のためにひきつれてつやつやとした唇。解いた腕を、ほとんど無意識に首に回していた。何度か、触れては離れるだけの口づけを繰り返して雑渡さんは私の頬を撫でた。噛み締めた頬の内側は幸福の味がした。もっと、ほしい。

「あ、これ以上は駄目だよ」

人差し指が私の唇を封じた。薄くもやがかかっていた思考はそのひと言で元に戻った。なんで、と言いたいのを我慢して無言で雑渡さんを見る。恨みがましい目になっていないだろうかと、少し心配になる。

「だって、これ以上したら押し倒しちゃうよ?」

「……っ?!」

押し倒す、という言葉がなにを示しているのか知らないわけではない。わけではないが、その実、実際事に及んだ経験のない私には何もかもが未知すぎて、たった二文字が直視に堪えない恥ずべきもののように思われて思わず雑渡さんを押しのけた。顔から火が出そうで、真っ赤な顔を見られたくなくて、無意味と分かっていながら腕で隠す。

「照れてる照れてる」

「や……やだ!わた、私、もう行きます」

よろけながら立ち上がると後ろから腰に腕を回され、雑渡さんの脚の間にしまわれてしまう。「今はしなくても、いずれは、ね」普段なら後ろをとられたって肘をみぞおちに入れて棒手裏剣で眉間をひと突きして終わりだというのに、雑渡さんの熱が私の身体を溶かしてしまうせいでうまい具合に力が入らない。首筋に鼻先が触れたかと思えば唇がつぅと肌を撫でる。かと思えば強く吸われて、私の肌に痕がつく。意図せず声が漏れて私は慌てて手で口を押えた。遠くの方で鶏が鳴く声が聞こえる。早朝の透明だった空気に太陽の光が混ざりだし、私の身体を隅々まで照らし出す。
やっとの思いで雑渡さんの脚の間から脱出した私は、もうとっくに唇が離れているというのにいまだじんじんと熱を持つ赤い痕を手で押さえ井戸に向かって早足で歩いていた。はやく顔を洗って意識をはっきりさせたかった。「おはようございます!」と朝から元気な尊奈門に適当に挨拶をして何度も冷たい水で顔を洗う。「あ、高坂さんおはようございます」と背後で尊奈門の声を聞きながら顔を拭き、手拭いを肩にかけ「おはよ」と振り返ると陣左の射るような視線とぶつかって、私は全てを見透かされているような気持ちになった。

「何も聞かないでね」

「わかった」

先手を打った私に肯く陣左。尊奈門は私たちのやりとりを不思議そうに見て「なんですか、私に隠し事ですか、教えてくださいよ」と両手を握りしめて上下に振るも「うるさい、しつこい」と陣左に一喝されてしょげるのだった。
先ほどの一連の出来事はただの戯れなのだろうか。それとも。判断しようにも判断材料も乏しければ判断能力も皆無なため、私はその日一日雑渡さんにつけられた痕を撫でながら思案に暮れて過ごした。全てが自分の表面を素通りしてゆくのでこれはいけないと思い直して今朝のことはひとまず置いておこうと努めるのだけれど、知らぬ間に私の指先は首筋に伸びていた。
目を閉じると唇に雑渡さんの感触が蘇る。あまやかな余韻は何度でも湧きあがり、さざみのように私の心を波立たせる。自分の部屋の布団の上で正座をしていた私は、立ち上がって部屋の戸を開ける。庭先で梅の花が暗闇にぼんやりと浮かび上がっていた。夜風は冷たくもほのかに微睡に似たやわらかさを含んでいる。お風呂上がりの火照った身体が一呼吸ごとに内側から冷やされて、頭までもが冴えわたるようだった。
雑渡さんのところにゆこう、と思った。雑渡さんに触れたいという気持ちが指の先まで満ちていた。
追いついて、追い越したいと願っていた背中に思い切り鼻を埋めたい。そして、それから。
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