2020

目を開けるよりも前に、あまい香りで意識が覚醒した。幸福という言葉ににおいがあるとすればきっとこんなふうなのだろうなと思うような、ふんわりとした、懐かしさすらおぼえる香り。その正体に思いを馳せながら、私は目を閉じたままベッドのなかでうっとりと寝返りを打つ。
力松くんのつくるパンケーキは絶品だ。
私が作ると外は黒焦げ、中は半生の残念なパンケーキ、あるいは使い古した座布団のような何かが完成するのに比べて(そもそも私がそのようなものを作ることは滅多にないし、手間を惜しむのがすべての敗因であることは明らかなのだけれど)、力松くんがつくったパンケーキといったらフライパンからお皿に乗せればふるふると震え、口に入れればしゅわっととける、まるでお店で出されるような絶品パンケーキなのだった。
「パンケーキをつくるならコレなんです」と思考錯誤の上に辿り着いた銘柄の薄力粉を使い、私のように電子レンジに放り込むのではなくきちんと湯煎でバターを溶かし、そしてメレンゲを泡立てる。電気の力なんて借りなくても、ホイッパーを握りしめ、いともたやすくメレンゲの角を立ててしまう力松くん。エプロンをして台所に立つ彼の後ろ姿を眺めるのが私は大好きだ。
せっかくの休みなのでもう少しベッドで横になっていたいけれど、キッチンに立つ力松くんの背中が恋しくなった私はハンガーに引っ掛けてあった力松くんの部屋着を頭からかぶってベッドを降りる。おなじ洗剤と柔軟剤で洗濯をしているのにどうして力松くんの服は力松くんのにおいがするんだろうと、あまりにあまった袖を顔の前で振りながらリビングのドアを開けた。

「おはようございます。パンケーキが焼けるまでもう少しかかるから、まだ寝ていてもよかったのに」

「いいにおいがしたから目が覚めちゃった」

ダイニングテーブルについた私に近づいてくると、力松くんは「寝ぐせ」とちいさく含み笑いをして私の髪に触れる。

「コーヒーいれますね」

そう言ってキッチンに戻りお湯を沸かす。彼お気に入りの、少し武骨な感じのする琺瑯のミルクパンで。挽いたばかりのコーヒーの香ばしいにおいがキッチンに漂った。
どうぞ、とマグカップを私の前に置くと冷蔵庫から生クリームのパックを取り出す。腕まくりをする力松くんが生クリームを泡立てるさまを、私はテーブルに肘をついて心ゆくまで眺める。
力松くんが初めてエプロンをつけたとき、腰紐の長さが足りるかどうか心配する私をよそに彼は後ろ手で器用にちいさなちょうちょう結びを作った。できなかったら私がやってあげようと思っていたから、彼がひとりでできてしまったことが少し残念だったけれど「似合いますか?」と、どこかはにかんだ表情で振り返った力松くんを見たらそんな気持ちは吹き飛んでしまって「宇宙でいちばんエプロンが似合うと思う」などと、ついのろけたような台詞を口にしてしまったのだった。
エプロンを買ってからというもの、キッチンには新しい調理器具が少しずつ増えていった。それも、私には扱えない類の。鉄のフライパンなんかがいい例で、手がかかるうえに重たくて三回振れば手首がもげそうになる大きなフライパンを力松くんは片手で軽々と使っている。包丁もいつの間にか種類が増えていたし、あとは、鬼おろしだとかミートハンマーだとかホットサンドメーカーだとか……とにかく、料理に妥協を許さないのだ。有古力松という男は。
なにより、そういった調理器具を肥やしにせずきちんと使っているところが彼のすごいところだと私は考えている。自分には到底真似できない。
食べられればなんでもいいし、なんなら別にご飯なんて三食きっちり食べなくてもいいというスタンスでこれまで生きてきた私は、毎度用意される五大栄養素を網羅したうえに彩りも盛り付けも完璧な食卓に驚かされると共に、心から感謝しているのだった。しかも、平日は彼のぶんと私のぶんのお弁当まで作ってくれるので助かることこの上ない。もう仕事なんかやめて主夫になればいいのに、と提案したことも何度かあったけれど、仕事は仕事で楽しいらしく、やめるつもりはないらしい。
ごめんねいつも料理任せっぱなしでと謝ると「そんなの、得意な方がやればいいんじゃないですか」と事も無げに言うので、私に力松くんをひき合わせてくれた神さまこと菊田さんには本当に感謝している。
昔に思いをはせている間に生クリームが完成したらしい。ごく弱火で焼いているパンケーキの焼け具合を確かめると「ミント、少しちぎってきてもらっていいですか」と肩越しに頼まれたので私は立ち上がる。
レースカーテンを開けると、わっと朝陽が部屋になだれ込む。その勢いに圧倒されながら私はベランダに出た。ベランダには彼の育てているハーブの植木鉢がいくつかと、今は空になっている夏野菜のためのプランターがひとつ置いてある。
力松くんの、なにごとにも気を配る性格が好きだ。料理にせよ、野菜の栽培にせよ、周囲の人に対する態度にせよ。
時々、私も植木鉢の野菜のひとつになったような気持ちになる。水をやり、日の当たる場所に置かれ、摘心をし、食べごろになったら摘み取られる。
力松くんと暮らす前、仕事に全神経を使っていた私の生活は乱れに乱れていた。だからこうしてきちんとした料理を口にし、適度に規則正しい生活を送っていると、自分が自然のサイクルの中で生きているいきものなのだということを自覚する。
もう力松くんなしじゃ生きていけないな。誇張でもなんでもなく、そう思っていた。
もっと、ちゃんとした形で彼と生きていきたい。それはつまり、結婚したいということなのだけれど、力松くんはどうのだろう。付き合って一年。お互いの年齢もそれなりだし、結婚の意思があるならそろそろ話を切り出されてもおかしくはない。いっそ私の方から言ってもいいけれど、でも。
目の前の電線に止まっていたスズメが飛び立つ。街はまだ静かで、空気は澄んでいる。いましがた胸の中に浮かんだもやもやを追いだしたくて、大きく息を吸って吐くと、身体の中身がすっかり入れ替わったような清々しさを感じた。
伸びをしながら視線を上げると、雲ひとつない青空には白い月が残っていた。こんなにも綺麗な光景を以前の私は知らなかった。空を見上げる余裕なんてなかったし、そこに月があろうがなかろうがどうだってよかった。もったいないな、と今でこそ思う。
日々の忙しさは変わっていないはずなのに、力松くんと一緒にいると不思議と時間がゆったりと流れているような気がする。時計なんかない森の中でキャンプをしているみたいな。集めた落ち葉の山に飛び込んだり、濡れるのも厭わず川べりで魚を探したり、満点の夜空で流れ星を探すような、そんな都会の喧騒とはかけ離れた場所にいるような気持ちにさせてくれるのだ。
その理由について時々考える。山男みたいな体格のせいなのか、それとも野性味あふれる体毛のせいなのか。そもそもがアウトドア気質だからかもしれない。色味のないビル群よりも、緑あふれる木々の方が力松くんの背景にはふさわしい。生まれは北海道の登別と言っていたから、きっと森のにおいが彼に染みついているのだろう。だからだろうか、力松くんの腕の中にいると、ふかふかとした黒土や、積み重なった落ち葉に穴を掘って冬眠する動物のように安らかな気持ちになれる。私は安全な場所にいるのだと思わせてくれる、たくましい二本の腕と分厚い胸板。
冬のベランダの手すりについた朝露が陽の光を受けて虹色に輝いている。眩しい、と目を細めると背後から伸びてきた腕に抱き締められた。ふんわりと、けれど、力を込めて。

「どうしたの?」

「いえ、なにも。ただ、nameさんの背中を見ていたら、こうしたくなっただけです」

そう言うと私の頭の上に顎を乗せるので、腕を伸ばして力松くんの髭や頭を撫でてやる。大人しくされるがままになっていたけれど、私が腕を首に回して顎を上げれば力松くんは力強く私の唇を塞ぐ。何度か唇を啄まれ、もっとしたいという気分にさせるくせにいやにあっさりと離れるのはパンケーキが火にかかっているからだ。
狭いベランダに置いてあるいくつかの鉢植えからしっとりと濡れたミントの葉をつまんでちぎると、力松くんは私の手を引いてキッチンにもどるのだった。
私を椅子に座らせ、力松くんは実に手際よく盛り付けをしてゆく。お皿に乗った二枚のパンケーキの上に山盛りの生クリームがかけられる。それからさっき摘んだミントの葉がちょこんと乗せられ「おまたせしました」と私の目の前に置かれた。
いれ直されたコーヒーに口をつけ、パンケーキを頬張る。甘すぎない生クリームがこれまたおいしくて、自然と頬が緩んでしまう。私がおいしいおいしいと声をあげるたびに、力松くんは食べている手を止めて私を見つめ、うれしそうな顔をする。

「力松くんのパンケーキは絶品だね。なに作ってもおいしいし、脱サラしてカフェ開けるんじゃない?」

「カフェですか。でも俺は、nameさんに食べてほしくて料理しているようなものなので。あなたの口からおいしいという言葉が聞ければ、それでいいんです」

「……そ、そっか」

真正面からやわらかな笑みを寄越すので、恥ずかしくなって私は生クリームをすくったフォークを咥えたまま俯いてしまう。口の中から頭の先に向かって広がってゆ甘さ。「クリームついてますよ」と口の端についているクリームを拭われるというベタな展開を経てすべてを平らげると、力松くんがお皿を下げようとするので私は慌てて立ち上がる。

「片付けは私がやるから」

「じゃあ一緒にやりましょう。nameさんが洗って、俺が拭きます」

力松くんと並んで立つと、そう狭くないはずのキッチンがやけに狭く感じておかしい。腕と腕を触れ合わせながらふたり分のコップとお皿を洗う。丁寧にそれらを拭いている力松くんに「今日の予定は?」と訊くと「とくになにも」とこたえるので新しくできたパン屋さんに行きたい旨を告げる。いいですね、行きましょうと快諾してくれたので私たちは各々支度に取り掛かる。
簡単に化粧をすませ、防寒に防寒を重ねた私とは対照的にひどく薄着の力松くん。

「それ、寒くないの?」

「nameさんは、それ、暑くないんですか」

「ないですね」

ブーツに足を突っ込んでそう言う私を力松くんはさりげなく支えてくれる。なんていうことのない仕草なのに、唐突に彼への愛おしさがこみ上げてくる。押しとどめることができなくて、ドアに手をかけようとしていた力松くんの腕に思い切りしがみついた。
玄関のドアを開けてしまったら、この部屋に満ちている私と力松くんだけの幸福で完璧な空気が損なわれてしまうような気がして。
自分でも馬鹿みたいだということはわかっている。わかっているからどんな顔をすればいいかわからなくて、私は力松くんの胸に潜り込む。

「どうしましたか?やっぱり行くのやめましょうか」

そうやって、この男は私をあまやかす。部屋の中の幸福が濃さを増す気配がする。私の髪を撫でる手は、私が次の言葉を発するまで、あるいは私が次に動くまで、止まることはないだろう。

「ごめん、なんでもない。行こう」

顔をあげて笑顔を見せる。でも力松くんは笑っていなかった。心配そうに、まっすぐな瞳を私に向けている。彼を心配させたくなくて、どうにかしてこの気持ちを説明したいけれど、なんと言えばいいのだろう。正直に言ったところではたして理解してもらえるのかどうか。だって、私の中で浮かんでは消える言葉たちはあまりにも詩的というか、乙女ぶっている。
私の瞳の奥を覗くような視線に心が震えた。本音を隠している邪魔なものひと息に吹き飛ばし、私の心を丸裸にしてしまう力松くんの眼差し。言いたくなければ言わなくてもいい。力松くんはいつもそう口にする。けれど、彼がそういう態度を取るからこそ、私は最終的に本音を伝えてしまうのだ。詩的で、乙女ぶった本音を。拙い言葉で。
だというのに言葉にすればするほど真意と離れていくので、なんとかその距離を埋めようとさらに言葉を重ねる。逆効果だとわかっていながら、やめることができない。本当に伝えたいことは、シンプルなはずなのに。違うのに、そうじゃないのに、と私は悲しくなって黙り込む。
力松くんは言葉を差し挟むことなく耳を傾けて、私の言葉が途切れると、そっと私の手を握る。「わかります」と言わないのは力松くんの誠実さのあらわれだ。完全にはわからずとも、彼なりにわかるための努力をしているということが伝わってきて、その真摯な面持ちに私は胸が苦しくなる。
きみといる毎日がこんなにも幸福に満ちているということを、私がどれだけきみを必要としているかということを、余すことなく、寸分の違いなく伝えるにはどうしたらいいのだろう。
力松くんが私を幸せにしてくれるのと同じぶんだけ、私は力松くんを幸せにしてあげられている?
力松くんの上着の胸元をぎゅっと掴む。すると、ふわりと私のつま先が宙に浮く。「なに、ちょっと……!」足をばたつかせるけれど力松くんは意に介さずソファまで行くと、私を膝に乗せる格好でソファに腰を降ろした。

「nameさん、言いたくないなら詮索しませんが、でも、そんな顔をされたら心配になります」

「ごめん」

謝ることじゃないです。力松くんは言うと私の身体をすっぽりと包む。

「俺は、頼りないですか?」

細い息が吐かれ、力松くんが静かな口調で言った。

「そんなことない。すごく頼りになるよ。いつも、いつだって頼りにしてる。私はもう、力松くんなしじゃ生きていけないってくらい、頼りにしてるし、それに……」

「それに?」

「大好き」

「俺もですよ。俺もnameさんのことが大好きです」

混じりっ気のない瞳。私は頷くことすらできない。大好き、の先にあるものを想像して恐怖すら覚える。私を幸福にするあまい香りは、いつまで今朝みたいに私のことを目覚めさせてくれるだろう。力松くんのいないこの部屋を、人生を想像すると目の前が真っ暗になる。
私はいま、こんなにも幸せなのに、どうして彼がいなくなることばかり考えてしまうんだろう。結婚のことを言いだせないでいるのは、そのせいもある。100パーセント、約束された未来を信じた状態で一緒になりたいと言いたいのだ。
そんなものは、ないと知っているくせに。

「力松くん……」

弱々しく彼の名を呼ぶ。

「大丈夫です。というか、俺が大丈夫にします」

なにを、と力松くんは言わなかった。でも、私にはそれがすべてで、じゅうぶんだった。彼の言葉が私の身体に根を張ってゆくのを感じる。
揺らぐことのない大地のようなこの人を信じよう。私を正しく生かしてくれる力松くんにぜんぶを委ねればいい。力松くんなら、なにがあっても大丈夫にしてくれる。100パーセント、完璧に。

「あのね、力松くん、」

言い掛けた唇を人差し指で制され私は口を噤む。

「nameさん、俺と結婚しましょう」

「まって、それ私が言おうと思ってたのに」

「だからです。もう少し待ってみようかなとも思ったんですが、もう待てないので。返事、聞かせてもらえますか」

強気なわりに、瞳の奥がかすかに揺らいでいるのがわかる。握りしめられている彼の大きな手を取りゆっくり解く。力松くんの手のひらに自分の手のひらを重ね、「ふつつかものですが」と頭を下げた。「こちらこそ」と力松くんも頭を下げるので、私たちは顔を見合わせて笑ってしまう。
ひとしきり笑ったあと、引き寄せられるようにしてキスをした。そして、それからたっぷりの陽の光の中で思うさま抱き合った。朝食のパンケーキのあまい香りが残る部屋で力松くんと肌を重ねるのはとても気持ちがよくて、とても幸福だった。
ぺたんと胸と胸(身長差があるので私の胸が当たる部分は力松くんの胸というよりほとんどお腹だ)をくっつけ合って「パン屋さん行くんだっけ」「そうでしたね」なんてとりとめのないやりとりをする。飛んで行った下着を拾ってつけると残りの服は力松くんが着せてくれた。
今度こそ玄関の扉を開けるのに躊躇はなくて、私は閉めた扉に鍵を差し込む力松くんの丸太のような腕にぎゅうぎゅうとしがみ付きながら、木枯らしの冷たさに頬を染め声をあげる。

【地獄ひとつチョコレートにするくらい訳無い】

(おづさんに贈ります)
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