2020

(ビターかもしれない)

尾形と寝たのかと訊かれて私は心底びっくりするとともに呆れかえってしまった。どうして私が尾形と寝るんですかと訊き返せば、菊田さんはいつも何かをごまかすときにする肩を竦める仕草をしようともせず、ただ黙って私の肩を抱いた。私が誰かと寝たかどうかを気にするぐらいなら、私をちゃんと繋ぎとめておけばいいのに、と思う。
私は菊田さんの腕の中が好きだけれど、それは彼の腕が私をきつく抱きしめようとしないから。そうすることで彼は私を、手と手を揃えて掬った水の中で泳ぐなにも知らない小さな魚のような気持ちにさせる。指の隙間から漏れてゆく水。苦し気に開閉する口。微かに動いていたエラはいつしか閉じたままになり、輝きを失った丸い瞳はどこでもない虚空の一点を見る。
このままじゃだめになるのだろうな。誕生日を間近に控えた私はそんなことを考えるようになっていた。彼の部屋で抱かれた後、肩に頭を預けているときは「いいじゃない、このままで」などと思うくせに。

「寝てませんよ。だれですか、そんな根も葉もない話を菊田さんにしたのは」

「いや、なんとなく、俺がそう思っただけだ」

バツが悪そうに後頭部に手をやると、菊田さんは自販機にお金を入れてブラックコーヒーのボタンを押した。ガコン、と間の抜けた音が誰もいない休憩室に響く。お前も何か、と言い掛けた菊田さんを遮って私は口を開く。

「もし寝たって言ったらどうするつもりだったんですか」

ソファに腰を降ろして私はパンプスをつま先に引っ掛ける。隣に座ろうともせず、コーヒーのボトルのキャプを開けようともしないで私を注視している菊田さんの眉間には皺が二本寄っていた。

「……どうって、どうもしねぇよ」

それを聞いた私がふっと笑うのを見て、彼はようやくキャップに手をかけた。

「菊田さんって自分から幸せを遠ざけますよね」

「そう見えるか?」

はい、と肯くとはずみで右脚のパンプスが飛んで横向きに転がった。少し傷になっているパンプスのつま先を眺めていると、菊田さんが腰をかがめてそれを拾う。右脚を伸ばしてまっすぐにすると、彼は片膝を床について私の足をパンプスに収めた。私は一連の流れを無表情で眺める。足の甲にキスをしろと言ったらこの男は言葉通りにするだろうか、などと考えながら。
私は前かがみになって菊田さんの頬に触れる。

「もう少し、欲張ってもいいんじゃないですか」

「……俺はいまのままで、もう十分だ」

それともなんだ、誘ってるのか。と言った彼の浮かべた笑みがあまりにも寂し気で、私はそんなことをするつもりではなかったのに、ソファから滑り落ちるようにして跪いたままの菊田さんを抱きしめた。「こら、はなれろ」彼が口にした言葉は私の舌の上で溶け、ほろ苦く滲む。髭に肌を撫でられ、私はたまらない気持ちになってしまう。
私を抱くときに見せる熱っぽい眼差しを今ここで向けてくれたなら、私はあなたのことが好きなのだと伝えることができたのに。
酸素を求めて喘ぐ魚のように、私は言葉の出ない唇をかすかに動かすことしかできないでいた。

退社時間を1時間半ほど過ぎたところでデスクの片づけをする。今しがた返信をしたメッセージの返事が返ってきたことを告げるランプがちかちかと点滅しているのを横目で見ながらパソコンの電源を落とし鞄を手にした。返信を確認することはせず、自分の部署を後にすると後ろから腕を掴まれた。

「おつかれ」

振り返らなくても気配で誰だかわかる。そしてそれは、今は会いたくない顔だった。だから私は余計な詮索をされる前にこの場から立ち去るため、有無を言わせぬ笑顔で振り向いた。

「……お前、菊田さんとなんかあっただろう」

そんな私の魂胆などお見通しだというように間合いを詰めてきた尾形は目を眇め声を落とす。尾形の口から菊田さんの名前を聞きたくなくて、私は「べつに」と短く返す。
尾形とは大学の時に少しだけ付き合ったことがある。
同じゼミで、ふたりともサークルに所属していないという共通点で距離が縮まった。つかず離れずのゆるい空気が好きだった。友人たちが夢中になる「見た瞬間恋に落ちた」とか「好きすぎておかしくなりそう」とか、そういうのではなくて、数センチ、お互いの体温を感知できる分だけの空白を挟んだ尾形との距離感が心地よかった。だから私も尾形も各々が抱いている感情が恋愛だとは思っていなくて、それなのに付き合うことになったのは、入学して三年目の春、映画館で見た映画の結末に静かに涙している尾形の横顔があまりにも綺麗で、つい彼の手を握ってしまった私に尾形がキスをしたのがきっかけだった。そのまま私たちはホテルに行ってセックスをした。ふたりとも、初めて同士だった。
告白らしい告白もないまま始まって、別れらしい別れの言葉もないまま私たちはいつしか友人に戻っていた。きっと、私たちは似すぎていたんだと思う。今思えば、捨て猫の兄妹みたいなものだった。隣にある体温に身を寄せることしか私たちは知らなかった。
社会人になって(奇しくも同じ会社に入ったのだけれど)尾形に彼女ができ、ほどなくして私は菊田さんと関係を持つようになった。

「菊田さん、何か言ってた?」

「昼飯の時、俺とお前が同じ大学だったときのことを聞かれた。あの人が誰かの個人的な過去について言及するなんて滅多にあることじゃないから妙だと思ったんだよ」

「で、尾形はなんて答えたの」

「同じゼミだった、とだけ」

「そっか」

なにを思って菊田さんは尾形にそんなことを聞いたんだろう。なんとなく予想はつくけれど。午前中の菊田さんとのやりとりを思い出して私は胸が苦しくなる。

「あの人、案外寂しがり屋だぞ」

「ははっ、なにそれ」

視線を落とした尾形が口にした言葉に私は笑ってしまう。寂しがり屋って、そんな。けれど尾形が菊田さんのことを「あの人」と呼ぶ言い方に親密さがうかがわれ、彼なりに自分に目をかけてくれている上司のことを案じているのがわかって私はいたたまれなくなる。ここで笑わなければ、きっと泣いてしまっていた。
尾形と別れ、エレベーターに乗りこむ。行き先のボタンを押せないまま私は両手で顔を覆った。どうして私ではいけないのだろう。私では、菊田さんの寂しさを埋めることはできないのだろうか。いつにもまして自分がとるに足らないようなもののように思えて、もたれた壁沿いにしゃがみ込んでしまいそうだった。
するすると下降するエレベーターの扉が開き、新鮮な空気が流れ込んでくる。エントランスに出ると脇にあるいくつかのソファに菊田さんの姿があった。本を片手に足を組んでいる菊田さんの背中を眺めていると、さっき尾形が言った「寂しがり屋」という言葉がスーツの背中に浮かび上がってくるようだった。
あの人は霧雨のように孤独の気配を纏っている。直接触れているのに、薄く煙たい霧の向こう側にいるみたい。目には見えなくても、彼の孤独は私の肌をしっとりと冷たく濡らすのだ。

「お待たせしました」

背後から声をかけると菊田さんは本を閉じて、

「既読にならないからまだもう少しかかるのかと思ったよ」

と振り返る。午前中のことなんかなかったみたいに。どれだけ取り繕っても私にはなかったようになんて振舞えなくて、曖昧に首を横に振ると菊田さんが立ち上がって「行くか」と歩きだすのでその後をついてゆく。
気持ち後ろを歩きながら、所在なく揺れている菊田さんの大きな手を見る。
すぐそこにある彼の手を取っていいものなのか、私はいつもわからないでいた。私のほうから繋いだとして、握手をする繋ぎかたなのか、それとも恋人がするような指を絡めたやり方なのか。繋いだあとは何か言葉を発したほうがいいのだろうか。ありえないことだけれど、さり気なく振り払われてしまったら?などと考えていると手を繋いでいるわけでもないのに私の手のひらはじっとりと汗ばんでいる。触れ合えば彼の方から手を繋いでくれることもあるけれど、微妙な距離を保ってあれこれ思案している間に、結局触れ合うことのないまま目的地についてしまうことの方が圧倒的に多いような気がする。
でも大概、そうやって私があれやこれやと考えているとき、菊田さんはとても自然な流れで私の手を取ってくれる。鬼気迫る雰囲気が醸しだされているのだろうか。絡まりあった指なんてどうってことないと表情を変えないでいる私の、冬だというのに汗で湿った手のひらに彼は何を思うのか。
目的地は菊田さんの部屋があるマンションだった。
マンションといっても賃貸で、けれど私の住んでいるアパートとは外観からして家賃に大きな差があることがわかる。初めてここに連れてこられたとき、豪奢なつくりの住まいに圧倒されてしまった私は菊田さんに「お持ち帰り」されたことなんか忘れて、すっかり建もの探訪気分でスマートなインテリアに心を奪われていた。菊田さんそっちのけで窓の外の夜景を眺めていると「なぁ、俺のこと忘れてないか?」と背後から抱きすくめられ、ようやく自分がここになにをしにきたのか(あるいは、されるつもりできたのか)を思い出したのだった。
ままならないシャワーを終え、ベッドを揺らし、それから裸同然の恰好でワインを飲みながらオリーブだのチーズだのをつまんだ。私も彼も料理はしない。私はできないわけではないけれど、この家のキッチンを我が物顔で使う気にはなれなかった。それではまるで、結婚を視野に入れた彼女そのものの振舞いみたいに思える。私がここに来るのは彼に抱かれるためだけ、それでいい。
そう思っていたはずなのに。
私をゆるく抱きくるむ彼の腕から逃げることは容易くて、なんなら今日か明日にでもそうしたっていいとたかを括っていた。なにかを約束したり誓い合ったわけじゃない。私たちの間にあるのは赤い糸ではなく切り取り線だ。
でもどうしてだろう。肌を重ねるごとに菊田さんをもっと欲しいと願うようになってしまった。それなのに相変わらず私は彼を欲しがる頭の片隅で彼から逃げることを考えていたし、菊田さんは菊田さんで「そろそろ好きなやつはできたか」などと冗談とも真剣ともつかない顔でセックスの後に訊いてきたりするので、私はもう頭で考えるのが面倒くさくなってしまうのだった。
身体の相性がよすぎるせいだろうか。眠りに落ちる前にゆっくりと交わりながらぼんやりと思う。私の中でじっとしている菊田さんの髪を撫でる私は、奥の方からしみ出してくるような快楽に眉を寄せる。菊田さんは、時折覆いかぶさった上半身を持ち上げては私の肌に唇を寄せた。そういうやさしい素振りを愛情だと錯覚してしまう私が悪いのだ。この人が私に与えてくれるのはぬくもりと快楽であり愛情ではない。情はあるとしても、愛はない。全ては快楽を引きだすための手段でしかない。私たちは快楽の檻に閉じ込められている。愛という名の天井がゆっくりと迫ってくる檻の中で、押しつぶされるまで私たちはお互いを味わい尽くす。
これほどまでに互いの身体を知っているのに、私たちはお互いの心をよく知らない。心、というか、本心を。
男ならもっと貪欲になればいいのに。身体だけじゃなく、心も欲しがればいいのに。
あの尾形ですら「来年結婚することになった」のだ。「え、マジ?」と言うと私の食べかけのハヤシライスがぼたぼたと皿に垂れた。尾形はそれを嫌そうな目で見て、それからちょっとだけ憐れむような目を私に向けるので「結婚がゴールとか、私は思ってないもん」とすくい直したハヤシライスを口に押し込んだけれど、スプーンに山盛りすくったせいであふれてこぼれたルーがブラウスの胸元に染みをつくった。「最悪」苦虫をかみつぶした顔をする私をひとり残し、尾形はさっさと席を立った。ひとり残された私はさっきの尾形の憐憫の眼差しが忘れられず、なんの味もしない昼食を機械的に口に運ぶのだった。ハヤシライスの染みはその夜、菊田さんにひどくからかわれた。「しかも白いブラウスにね」と、ボタンをふたつ外したブラウスの表面で色褪せている染みを人差し指の先でぐりぐりと執拗に押す。その顔がどこか怒ったように見えたので、もしかしたら尾形と一緒の席にいたのを見ていたのかもしれないと推察した。それは、おとといの出来事だった。
菊田さんは少しでも束縛と思われる言葉を口にしたり、私の人間関係に干渉するような真似をこれまで一度もしたことがない。なので私もそれに倣っていた。
だから今日、尾形とのことを聞かれたときは驚いた。私の過去や交友関係に興味があったのか、と。それと同時に私と尾形が寝るわけがない(過去にというなら話は別だけれど)ことなど百も承知で訊いてきたから呆れたのだ。自分だって返ってくる返答などわかっていただろうに、聞かずにはいられなかった菊田さんを思うと胸が締め付けられた。
無関心を貫けばよかったのに。貫けなかったのなら弱さを見せればよかったのだ。それなのに、いつもの悲しい笑顔なんか浮かべてしまって。だから私も、なにも言えなかった。
「寂しがり屋」の眠っている顔は可愛らしい。裸になっても孤独という名の目には見えない薄衣をまとう人。本人は気が付いているのだろうか。脱ごうとしても、年月を経てそれは肌と同化し、ほとんど皮膚の一部になってしまっているということに。
もっと早く出会えていたなら、と思う。もっと早く、あなたの別れた奥さんとあなたが出会うよりももっと前に。たとえ私が子どもであなたが大人だったとしても、私はあなたを全力で愛し、大声で愛を叫んでいただろう。
私たちはもう大人だから、踏み越えてはいけない一線があることを知っているし、それを踏み越えない分別と思慮深さを身に着けてしまったから。「しない」という選択肢を選べる程度には失敗の痛みを身をもって学んでいるから。
だったらいっそ、足の甲にキスでもさせて従わせてしまおうか。現実離れした光景を思い浮かべた私の唇は弧を描く。
おだやかに眠る菊田さんをやわく抱きしめ首筋に鼻を埋める。意識のあるときにもこんな顔を見せてくれたらいいのに、なんて思いながら。
「おやすみなさい、寂しがり屋さん」私は掛け布団を菊田さんの肩まで引っ張り上げるとベッドをそろりと後にした。

【運命にならない恋だってあるよ】

(201128にツイッターにあげたものを加筆修正)
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